生命を宇宙的に見る

ジョージ・アダムスキー

 

 復活祭(注1)の祝典は一大イベントであり、いつの日か、この世界に再び肉体の復活を立証する人が、もう一人現れることでしょう。しかし、その人は自ら為すことに狂信的になることはないでしょう。なぜなら現実主義がそれを達成し、この世界を“生命”の理解へと変えてゆくことになるからです。朝、太陽が昇るようにキリストが現れます。しかし、太陽の前には月が出ていました。月は冷たい“電気”の部分を象徴し、一方、太陽は暑い“磁気” の部分を象徴して完全な復活をもたらします。月は時が来れば太陽にその位置を譲ったのです。したがって私たちも同じように行なわなければなりません。以上が、私たち全員が為さねばならないところの“象徴”です。私たちが見るべきを見、知るべきを知り、理解すべきを理解するとき、この肉体を“復活”させることでしょう。イエスは私たちが死ぬ必要はないという意味で死んで行ったのではありません。彼は、自分が死の影響を受けないという意味で亡くなったのです。イエスは私たちにその方法を示し、誰もが重荷を背負っていることを語りましたが、これはすべての人に誤解されています。

 

 女性は人間の堕罪と言われてきましたが、男性も女性と同様に責任のあることがわかります。女性は生活で美しく繊細な物事を好み、同時に、たいていは気性が男性よりも優美です。そこで生活の中で優美なものを好み、これによって差別をしはじめ、そのために摩擦が生じてきます。女性はリンゴを食べたからではなく、あるものを他のものより優れていると言ったからこそ堕落したのです。そこで女性はそのフィーリングをアダム、すなわち男性に伝え、男性も同じ摩擦の経路にはまり込み、これによって自らの肉体を低下させたわけです。肉体というものは絶えず混乱や摩擦の状態にあっては存続できないからです。肉体や、あらゆるものは平安の中でのみ存在できます。あなたは平安の中では永遠に生きることができますが、摩擦の中にあっては不可能です。

 

 人間は生活に二つの状態を望んだために堕落したのです。以前には一つの状態しかなかったのに、ある状態を優れていると呼び、それを誇りに感じる一方で、他の状態を恥だと思いました。時を移さず人間はその体に恥ずかしい思いをするようになり、衣服を求めました。“神”がエデンの園に現れたのは、人間が自らの体を隠しはじめた時であり、アダムは裸であったために隠れていました。そこでアダムは裸を恥じるようになったのです。しかし、男性も女性も、いかなる恥辱も知るようにはなってはなく、差別するようにもなっていませんでした。差別が入り込んで来るところには分裂も入り込むことになるからです。差別や分割をすることで、あなたは不安定の経路に投げ出されます。そして不安定は、あなたを絶え間ない心配や恐怖、苦悩の経路に押し込みます。そして、こうしたものがあるところには、平安は存在しえないのです。

 

 神とは “平安”の神のはずです。あなたが摩擦の経路にあるときには、神はあなたの肉体の中で十分に表現することはできません。だからこそ、アダムは堕落したわけです。今日、人間はまさにアダムがやったことを行なっており、いつもトラブルの状態にあります。恥辱が人間の生活に入り込んでいます。人間は幸福で平安であるように創造されたのです。イエスは摩擦を克服し、人間の体に平安をもたらすためにやって来ました。そのためにこそ自らの肉体を復活させたのです。

 

 そうした生命を取り戻すためには、すなわち永遠の生命を得るためには、人間は死や信念の欠如のもととなったもの、摩擦のものとなったものすべてを捨てさらねばなりません。分裂こそ私たちを神から引き離す唯一のものであるとわかるからです。早晩、私たちは絶対的な確信をもって十字架を手にしなければなりません。そして自分が何をやっているのか、また、その結果がどうあらねばならないかを知らねばなりません。その日から私たちは幸福に生きることでしょう。しかし、そのとき自己の心や体験に真理を得ていなければ、これまで受けてきた様々な教えも、これまで読んだ書物も、みな、私たちを救うものとはならないでしょう。私たちの心に真理を築くことこそ、宇宙の目的なのです。私たちが、どんなにそのことを避けたいと思っていようと、結局はそうせざるを得ないでしょう。

 

 そもそも肉体にすら死というものは存在しないのです。これまで死体というものは存在しなかったし、これからも存在しないでしょう。死んでしまった肉体というものは、それ自体を、構成要素の化学物質に還元することなどはできません。構成要素と言ったのは、私たちの体はこの世界のあらゆる鉱物からできているからです。その鉱物は植物や動物を介して来たものです。もし、私たちが体内の様々な要素をコントロールしなかったならば、それらすべてがお互いに反目することになるでしょう。あらゆる軋轢(あつれき)は理解の欠如に起因しており、平安と“理解”を求めることによってこそ、軋轢を取り除くことができるのです。肉体の死後分解するとき、いわば肉体の成分によって、その周囲の土壌が肥やされるのを、私たちは知っています。その土壌からは一本の木か、あるいは動物の食べる植物が生えてくるかもしれません。動物が来て植物を食べると、その植物は動物のからだを作り上げるようになります。今度は、人間がその動物の肉とミルクを取り入れます。したがって私たちは肉体ですら死ぬことはなく、「死」後も役立ち続けることがわかります。

 

 そこで肉体が死なないとするならば、その肉体内の支配“要素”すなわち、その肉体内の “全能の力”であった “意識”も生き続けるにちがいないことがわかります。意識は肉体よりもさらに偉大であるからです。肉体が生き続けるなら、意識も生き続けるにちがいないのです。人が、破れてもはや着れなくなってしまった衣服を脱ぎ捨てるように、“意識” はその衣服を捨てるだけです。私たちは絶え間のない軋轢のために、つまり分裂意識で生きているために、肉体を過度に摩耗させ引き裂いてしまうので、肉体はもはやそれに耐えることができません。私たちがこの肉体を捨てる時、別の肉体を得なければなりませんが、次々に肉体を得ようと奮闘する必要のないように、私たちはいつの日か、この肉体を絶えず完壁に保持する方法を学ばなければなりません。そのいたわり方を私たちは知らなかったのですから。

 

(注1):キリスト教の大祭日で、キリストの復活を祝う祭り、春分後の最初の満月の次の日曜日に行なわれる。

 

 

 

 この肉体を保持する方法を学んだ後、そのときこそ私たちは、さらに大いなるもののために働くことでしょう。イエスは自己の肉体を保持する方法を学んでいたのです。自分自身を理解することでそれを学びました。私たちが自分自身を理解するとき、今、生きている世界をも理解することになります。私たちは神が意図したように生きなければなりません。「誰もが自分自身の重荷を背負っている」とイエスは語ったからです。誰一人、あなたに代わって生きることはできません。イエスは「この一つの大いなる生涯において多くの生涯を経てきた」とも言いました。この一つの生涯に多くの生涯を経てきたと言ったのは何のことを言ったのでしょうか?

 

 一匹の魚が大海の中にいるように、イエスは自分が生命の中におり、幾度も血と肉の体であったのが見えたのです。イエスは、生命が“偉大な宇宙普遍のもの”すなわち地上でいくつもの人体に現れた“神自身の生命”であるのが見えたのです。私たちは、これまで何度もこの地球にやって来なければなりませんでした。そして自分自身が聖なるものであることを知り、その同じ光であらゆる人を見るようにする日までは、そうし続けることでしょう。いかなる点においても利己的になることはなく、もはや人を恐れることも疑うこともないでしょう。私たちは神が個々に分かれた“宇宙”として、個々の生命となり、“永遠”を旅することになるのです。

 

 私たちはここに一人でやって来ました。私たちは自分で眠り、また自分で食べなければなりません。そして自分については自分で考えなければなりません。誰一人、私たちを助けることはできないし、誰一人、私たちに代わっては、何もすることができないのです。私たちは、もっと楽な道(方法)を教わることはできますが、一人でその道を進まなければなりません。誰も私たちに代わってそこを歩くことはできないのです。それぞれに異なる道があるのです。誰も他人を裁くことはできません。一人一人が自らの道を旅しなければならないのです。

 

 「自分の生命を失う者はそれを見い出し、自分の生命を救おうとする者はそれを失うだろう」とイエスは言いました。イエスはどのような生命のことを言ったのでしょう。わが失うことのできる唯一の生命は利己主義の生命、個人的な生命です。この利己的で個人的な生命を失うとき、私たちは非利己的な生命、すなわち利己的で個人的な生命よりも、ずっと偉大な神の “永遠の生命” を見い出します。なぜなら個人的な生命のなかでは限界があったのに対し、この “非利己的な生命”のなかでは、その果てを見ることができないからです。自らの個人的な生命を救おうとしている人は、その本当の生命を失うことになるでしょう。なぜなら、その人は生命を全体として、つまり“全宇宙の生命”として見ることはないからです。人が小さな自己に目を向けると、“宇宙”の大きさを見ることはできません。しかし、“宇宙”の広大さを見るならば、自分をその中に見るでしょう。住むべき偉大な世界を見い出すことでしょう。

 

 私たちに道を示した“人”に大きな敬意を払う前に、私たちはこうしたことをできるかぎり考えねばならないのです。今日、私たちが固執しているものごとは、すべて捨て去らねばならないのです。一つの経路から見られた生命では意味がありません。それは “宇宙”から見なければなりません。アフリカの神も、アメリカに存在している神も同じです。一つの神があるだけで、それはどこにも存在しています。

 

 生命における真実は、ここでも、アフリカでも同じはずです。すべてが、どこでも同じはずです。あなたは生命を “宇宙的” にとらえ、個人的にとらえてはなりません。生命を “宇宙的”にとらえるならば、今日あなたを悩まして状況に苦しむことはないでしょう。あなたは自分に柵をつくっているために苦しんでいるのです。しかし、生命を見渡すときに、それが “宇宙的”になるならば、生活は充実し、生きがいのあるものとなり、一日一日が、さらに素晴らしいものとなります。

 

 生命を“宇宙的に理解する”ことで、あなたは自分の肉体を生命のすべてが表現できる振動率にまで高めます。あなたは “聖なる存在”なのです。しかし現在、神である “すべての意識”のなかで生きていません。あなたは100%の "神なる意識" のうち、その1%のなかでも機能していません。イエスのようなマスターである最高の人でも、 “神の全意識”のうち、50%のなかでしか機能していなかったのです。そこで、イエスは「私が行なったことよりも、もっと大きなことを、あなた方は為すだろう」と言って、このことを認めたのです。

 

 そこで、あなたや私の“意識”は随分小さなものであるため、実際にはまだ“意識”でないのがあなたにはわかるはずです。また各々の “意識”の状態は異なっています。たとえば、1億8500万人の人々を有している私たちの国では、その日に毎秒1億8500万の異なった “意識”の状態が表現されています。しかも、これは、動物、植物、鉱物の領域外のことなのです。同じ“意識”の状態は二つとしてなく、それぞれが、幾分異なって現れています。

 

 あなたが“生命の呼吸”を行なうと、こうした異なった“意識”の状態を取り入れるのです。そして、あなた個人のものを表現し、他のものは通過させます。私たちは大海にある途方もない数の砂粒のようなものです。ただ“宇宙の意識”全体について考えなさい。それは様々な砂粒や原子の中のすべてにあって“全宇宙”を構成し、無数であり、しかも各々が自らの役割を演じ、他と関連することが可能なのです。そこで私たち自身が“意識”から分かれた砂粒であるとわかったなら、自分を摩擦や取り入れるべきでない状態を招くことから守らなければなりません。

 

 私たちは自分の役割が何であるかを知り、“無限なる意識の全体性”に到達するように少しずつ努力しなければなりません。そしてこれは一日では達成できませんが、あなたが行なう“生命の呼吸”のたびに、その“全体性”があなたの寺院(肉体のこと)にやってきているのです。しかし、あなたはその“全体性”の1%しか表現していません。

 

 こうした様々な“意識”の状態は絶えず影響を及ぼして私たちを刺激します。私たちは他人の想念を感じ取っているのです。大勢の人たちの“意識”を感じ取っているのです。もし、この事実を知らなければ、私たちは自分に属すものを取り入れ、他人の意識つまり、他人の心を取り入れてはなりません。ただ確信の状態でいなさい。これこそが“平安”への唯一の方法です。そしてさらに美しい状態ヘ一歩一歩成長してゆきなさい。

 

 生命の中ではすべてのものが、それ相応の位置を占めています。あなたがよりよき位置を獲得すると、それはあなたの“生活”にもたらされます。したがって、あなたは自分が意識しているものごとを通じて、さらによい位置を得るのです。

 

 あなたは絶えず成長していくことで、そこに到達しますが、そこは限られたところではなく、また、あなたがいつ到達するか時期は決まっていません。あなたは必ず到達します。そこが目的であるからです。そこから、あなたの人生が始まります。そのときこそ、もはや理解の欠如から生まれる悲しみを味わうことがなくなるからです“永遠に続いてゆく生命”を獲得し、それをあなたに与えられた“寺院”に宿しなさい。その始まりから持ち続けなさい。

 

 以上は狂信的な目標などではありません。イエスは狂信者ではなかったからです。しかし、イエスは“父”が思ったとおりの生涯を過ごし、“父”がもくろんだことを行なったのです。イエスは言い争いも摩擦の経路に踏み入れることもしませんでした。自分の知っていることは話しましたが、人々がその“教え”に留意するかどうかはかまわなかったのです。もし、この“法則”がわかるなら、あなたはいかなることも、それがどのように受け取られるか気をもんではなりません。

 

 私はあなたに、いずれ誰もが生きなければならない生命の“視点”を説いています。私はあなたに、その生命の“視点”を説くことはできます。しかし、あなたに代わってその仕事を行なうことはできまぜん。私はあなたが今歩んでいる道よりももっと楽な道に沿ってあなたを案内することはできますが、あなた自身でそこを歩まねばならないのです。

 

 以上を肝に銘じることができれば、つまり、あなたの“意識”に刻み込むことができるなら、どれほど素晴らしい事になるでしょう。生命の“大いなる美しさ”、あなたの前に広がる偉大な未来を見なさい。天国の天使のようになりなさい。あなたはそうであるからです。天使になるのに翼を持つ必要はありません。翼は、あなたの想念にあたる浮遊した状態を表しているにすぎません。つまり、あなたの想念なのです。あなたは今、宇宙を浮遊しているのです。しかし、そのことをあなたは知りません。

 

 あなたは肉体ではありません。あなたは思考する“意識”、あるいは“意識する想念”であり、その“意識”は肉体に入って来る“生命の呼吸”のたびに、あなたに届いているのです。しかもこの“生命の呼吸”は、今、浮遊しているのではありませんか。それがあなたと言う“個性のすべて”なのです。しかし肉体に入らなければ表現することはできません。

 

 あなたの肉体は絶えず変化しています。それは低下しているか高まっているかのどちらかです。もし、絶えず摩擦によって引き裂かれるのなら、ますます粗雑になります。しかし、絶えず平安と喜びで形成されるのならば、さらにもっと敏感になります。

 

 ラジオが最初に発明されたときは、放送局に合わせると混信する鉱石ラジオでした。これは感知する鉱石に、一度に一局を選べるほどの感度がなかったためでした。このラジオにはあらゆる種類の摩擦電気が入って来ました。徐々にラジオは改良されて摩擦電気つまり静電気はなくなりました。しかし今日でも、全世界から選局したり、遠い所からやって来る微妙な波長を受信できる感度を持つラジオはごくわずかしかありません。

 

 私たちの体はラジオのようなものです。もし私たちが粗雑なバイブレーション(振動、すなわち、粗暴な状態にあるなら、世の中の粗雑さをすべて拾い上げ、その粗雑さが私たちを引き裂いています。粗雑さは摩擦であるからです。私たちは、さらに“高度な意識状態”に絶えず拡張することで、自らの肉体を変換することができます。まず最初に、ある概念を得て、その次に実現を得ます。それからまた概念を得て、そして実現してゆきます。このようにして私たちは登りつめてゆくのです。

 

 あなたが生命について、さらに素晴らしいものごとの概念を得ると、あなたの生活に反映してゆきます。すると、あなたはもっと敏感になり、さらに高い存在へと成長します。これはあなたの肉体の中で振動率が高まったことを意味します。高度な“意識”を通じ肉体を十分高い振動率におくことで、あなたは肉体を自由自在に分解したり、合成したりできるところへ到達します。それはイエスが行なったことです。振動率が高まるにつれて目に見えなくなります。

 

 肉体の意識を完壁にすることで、あなたは聖なる“意識”の完全な道具となります。あなたは、この生涯において死を克服するかもしれません。仮に今できなくても、イエスが行なったように、自分の肉体を保持できる状態を達成するまで続けることでしょう。肉体の意識は非個人的な奉仕や非個人的な観念を通してのみ改善できるのです。他に方法はありません。“宇宙の法則”に従うためには、あなたは“意識”のなかで“宇宙的”にならねばなりません。ラジオは波長を選んでその経路になる以前に、まず多くの原則に従わなければなりません。私たちも“宇宙”の波長については、同じようになければなりません。押し寄せる宇宙の波の経路となる前に、宇宙の僕とならねばなりません。

 

 マスターとは生活において“宇宙的”で非個人的であり、しかも全人類に奉仕するものです。したがって、昨日の古い上着は忘れて、自分自身を復活させなさい。そして今日は新しい衣服を身に着けなさい。現在に生きなさい。平安と喜びの中に生きなさい。そして宇宙を愛しなさい。そうすれば再び“愛”を受けるでしょう。その“愛”はあらゆるものに満ちているでしょう“父”の家にはすべてが差し出されているからです。

 

 もし、あなたの兄弟が、あなたほど早く登ることができないなら、彼に以上のことを説明しなさい。そして忍耐強くなることです。彼もいつの日か登ってくるからです。すべてのものを“宇宙的”に見ようではありませんか。心にキリストを持とうではありませんか。キリストはモーゼの中にもありましたが、どの人の中にもあるのです。しかし、肉体の中にある“永遠に続いてゆく生命の道”として、キリストを説明したのはイエスだったのです。学びたいものがあれば、それをすべて学びなさい。自分自身を平安や愛、永遠の生命の中央に置きなさい。あらゆるものごとは平安によってもたらされ、そして平安は愛によって支えられています。“永遠の生命”とはその結果であるからです。

 

(訳H.K)