意識の声 No.9 より

1991年 4月号

 

 つい先日このエッセーの三月号を書いたと思ったら、もう四月号ですから、一ヶ月の経過の早いことを痛感します。そして艶麗な春――。「春と聞かねば知らでありしを、聞かばせかるる胸の思いを、如何にせよとのこの頃か」という季節となって、万物の躍動感を覚える日々ですが、私は相変わらず超多忙でして、いまは四月末刊行予定のユーコン誌一一三号の編集で忙殺されています。この文章を執筆中の三月二四日現在はすでに編集を終えて校正の段階にあります。四月に入れば新アダムスキー全集第一〇巻の現行五〇〇枚書き下ろしの仕事が待ちかまえていますから寸刻の中断も許されません。

 

 しかし私は下手ながらも文章を書くことに抵抗感はありませんね。特にいまはワープロという非常に便利な機械がありますので、これを駆使すれば「馬に寄りて待つべし」というほどに速筆が可能です。これがいかに便利かは多言を要しません。以前は原稿用紙に手書きで書いていたのですが、これだと書き直しや修正などにひどく手間取ったものですけれども、ワープロならばスクリーン上で文章を自由自在に訂正できて、原稿一枚ぐらいはそれこそアッというまに仕上げることが出来ます。もはやワープロは私の体の一部分といってよいでしょう。いとおしいワープロちゃん。

 

 そこで痛感することは、人間の生活を向上させるものは科学であるということです。金星では家庭でロボットを多用して人間の労力を大幅に軽減しているということを、アダムスキーが書いた最後のマボロシの書物で読んだことがありますが(この書物は出版されなかったためにマボロシに終わったのです)、地球人全体を宇宙的に覚醒させるものは究極において科学でしょうね。先日もある会合で、「地球上は戦争の絶え間のない状態にあるけれども、これを消滅させて真の平和を確立するには、別な惑星の偉大な文明と高度に発達した人類の実体を地球人すべてが知らなければ到底ダメだ」と話した次第です。別な惑星の実情を知るには、地球から有人宇宙船を飛ばせて別な惑星に着陸させ、直接現地の様子を目撃させるのが最上です。実体を見て腰を抜かした宇宙飛行士達が正直に本国へ報告しても管制センターは極秘にせよと箝口令を敷くかもしれません。しかし「隠されていることで漏らされないものはない」という法則によって早晩真実は伝播するでしょう。そのときに地球人は愕然とし、自分たちの野蛮性に気づいて、人間改革の機運が世界的な規模で澎湃としてわき起こるでしょう。このように考えると、人間を宇宙的に覚醒させる機運となるものは究極において科学であるということになります。

 

 しかし科学はあくまでも「機運」であって、「科学、即、平和」ではありません。地球を真っ二つするような核兵器も科学の産物ですが、こんなものはご免です。要は科学と精神のバランスのとれた発達が必要ということになります。そのいずれに堕してもよくないでしょうね。

 

 ところが人間はとかくいずれかに偏向するのです。形而上的なものに関心が強い人もあれば科学一辺倒な人もいます。そして互いに誹謗し合います。何という狭量さ。それらのいずれも重要なのですから、お互いに尊重し合えばよいのに――。

 

 前述のアダムスキーのマボロシの書物ですが、この内容はアダムスキーが火星の劣勢について詳細に述べているために出版しないほうよいというアドバイスを金星人から与えられたということで、それで日の目を見なかったと聞いています。火星人は他の惑星の侵略はしませんが、他の惑星からの攻撃を受ければ反撃するだろうということです。まだ精神性が金星ほどに発達していないようです。もちろん地球人をはるかに凌駕してはいるのですが――。
 火星は科学技術において太陽系で最も進歩し、各惑星で使用される宇宙船のほとんどは火星で建造されるということですが、それでも精神面で金星ほどのレベルに達してないということですから、人間の精神の発達の速度は遅々たるもののようですね。火星人が科学に懲りすぎているせいなのかもしれません。

 

 一方、地球の宗教哲学なるものは全く役に立たず、宗教上の対立から闘争ばかりやっているのですから、恐ろしく原始的です。哲学にしても無用の長物化したと言えるでしょう。この原因は、やはり地球人が他の惑星の実態を知らず、人間の住む惑星を地球だけに限定した概念から一歩も脱出しないためです。遙かな惑星群の超絶した文明への憧憬と認識が根本的に重要であることは自明の理です。

 

 私自身は島根県の極端に閉鎖的な田舎で生まれ育ったのですが、アダムスキー問題をやるようになってからは世界各国の団体や研究家と連絡していましたから「自分はただの田舎ものではない。国際感覚のある人間だ」と自負していたのですけれども、後に東京に移住してから「なんと田舎者であったことか」と長大息したものでした(もっとも若い頃に東京のあちこちで下宿していたことはあります)。そして今度は世界屈指の大都市東京にいるのだから、これで国際感覚が身につくぞと思ったのですが、その後しきりに海外へ出かけるようになってから、やっぱりダメだと憮然たる面持ちになりましたね。どだい東京は田舎なのです。長い歴史の重みを持つヨーロッパの重厚な大都市を見て、東京が恐ろしく薄っぺらに感じられたのですから――。ただしこれは昔のことで現在の首都はあらゆる面で発達してきましたから、一応国際都市とは言えるでしょう。しかし東京在住者でも海外に一歩も出ない人と頻繁に出かける人では確かに感覚の差があります。

 

 私は地方に在住する人達をとやかく言うのではありません。地方にはそれなりの良さがあります。第一人間の幸・不幸は各自の価値観と主観によって決まるものであって、地域で比較できるものではありません。これは異次元な話です。私が言わんとするのは人間の感覚の拡張の問題です。厳密にいえば、どんな僻地にいても大宇宙の彼方に想念を広げることは可能ですが、ただ想念の拡大だけでなしに、存在するものに対する認識という見地からすれば、やはり現地へ行って自分の目で目撃するという行為が根本的に必要です。これはGAPが毎年実施している海外旅行の成果で明言できることです。別な惑星の人達は定期的に大宇宙船に乗って太陽系の各惑星を巡遊したり、別な太陽系までも訪問するというのですから、やっていることがケタ違いですが、しかし地球人もいつかはそのレベルに達するようになるでしょう。そう信ずべき理由はあります。ですから大いなる希望を持ち続けることにしましょう。

 

 人間の生活は些細な事や卑小な事柄で満ちていますが、それらをはるかに越えた広大な宇宙空間に思いを馳せて、別な惑星の人々の素晴らしい生活のイメージを自分の生活とダブらせて、「いつかこのようになるのだ」という希望を持ち続けるならば、今生でならなくても、来生でそのイメージどおりの生活環境に転生するかもしれません。ここが重要なところです。一般地球人はこんな事を夢想だにしませんが、GAPの皆さん方は充分にご理解いただけるものと思います。

 

 イメージといえば、自分の周囲の人達でどんなに不愉快な人がいても、その人が立派に進歩した理想的なイメージを心中に描いて、「この人は必ずそのようになる」という祝福の想念を送り続けることが大切です。それは自分自身のよきカルマの形成にも必要なことです。

 

 以上のように見ますと、他人に対する非難攻撃というものが如何に低次元であるかが分かりますね。それは別な惑星の人々から見れば『想像を絶した低次元』ということになるらしいのです。だからスペースピープルは地球人を絶対に非難しないわけです。現実は難しいことですが、やはり私達もスペースピープルを見習う必要があるでしょう。スペースピープルは私ごときくだらぬ人間をも非難するどころか、依然としてご援助を続けておられるのですから、いやもう恐縮先晩、言葉は出ません。