意識の声 No.14 より

1991年 9月号

 

 私は八月七日に恒例の海外研修旅行に出かけ、一二日間の大旅行を終えて八月一八日に無事帰国しました。まずアメリカ西部へ入り、次にメキシコへ行き、そのあと再度アメリカの東部へ入国し、最後はワシントン市からデトロイト経由で成田へ直行しました。人員は出発時に一七名、ロサンゼルスでダニエル・ロス夫妻が合流して一九名となり、ニューヨークでアリス・ポマロイ女史が加わって二〇名。豪華な顔ぶれになりましたね。すべてが計画通り順調にいってなんらのトラブルもなく、全員元気で帰国できたのは、やはりスペースピープルのご援助のたまものと思っています。といいますのは、旅行中、例によってのUFOがあちこちで出現したのですが、そのほかにも説明のつかないミステリーがときどき発生したからです。

 

 

 デザートセンターは相変わらず猛暑で、たぶん摂氏四二度はあったと思います。しかし全員元気にコンタクト地点を視察し、ここで約一時間半を過ごしたのち、再度バスで引き返したのですが、ここでちょっとしたミステリーが起こりました。視察を終えて午後の一時半頃にバスで帰途についてまもなく、付近の低い丘の上に二個のケルン(石積み)が作ってあるのを一同が見つけて、「あれは一体何か。行ってみよう」ということになり、何人かの人達がバスを降りて丘へ登ったのです。私はくたびれていたためにバスに残っていました。やがて帰って来たロスさんが言うには、「丘の上の右側のケルンのそばに直径約一メートルの白い円が地面に描いてあり、その中に横文字のKという字が描いてあった。これはクボタのKではないか」と言うものですから、「それはスペースピープルが描いておいたのではないか」と私が冗談を言うと、ロス夫妻が「そうかもしれない」と言って笑っていました。現場へ行った人々は「これは久保田会長が以前にここへ来たときに作っておいたものではないのか」と言っていたそうですが、私はその丘に登ったことはありませんし、ましてそんな標識などを作った覚えもありません。不思議なことに、最初デザートセンターのバスの停車位置に行くときは、私が窓の外の風景を凝視していたのですが、そのケルンは全く見えなかったのに、帰途はそれがあったという事実です。私たちが一時間にマルKを描いたのでしょうか。謎は深まるばかりです。その他にもいろいろと不思議な事が旅行中に発生しています。

 

 

 翌日は快晴下をパロマー山に登り、清澄透明な空気に包まれたパロマーガーデンズと大天文台見学しました。この日、ロサンゼルスへ帰ってから、夕食は前夜と同様に日本町の『養老の滝』へ行ったのですがそのとき遅れて来たO君とU君の二人が、日本町の上空に銀白色に光る円盤状のUFOを実に三〇分間も目撃し、ビデオにも撮ったということでした。このビデオがうまく撮れていれば、VHSに編集して東京月例会で映写するつもりです。

 

 このどの旅行こそは四官をコントロールしながら歩こうと決意を固めていたのですが、いざ外国の土地を踏んでみますと、どうしても視覚と聴覚がのさばりかえって、ともすればそれらに振り回されている自分を発見し、なんというデクノボーなのだと、慨嘆これを久しうするような状態が多々ありました。しかし私がこうまで自律訓練を実行しながら海外を歩いた経験はかつてなかったものですから多少は進歩したのだろうと思っています。日本人も白人も黒人もみな創造主から遣わされた天使なのだという想念の持続とその反復思念が旅行中に消え去ることはありませんでしたね。そしてスペースピープルから確実に見守られているというフィーリングが絶えずわき起こっていたのも事実です。それに関しては旅行中にときどきある体験があったのですが、他人が目撃証人にならないような出来事は一切口外しないことにしています。 

 

 ロス夫妻は『UFO−宇宙からの完全な証拠』の日本語版が出たばかりなので、とくべつに嬉しそうであり、旅行中は大いに語り合って、得るところ大なるものがありました。いろいろなUFOの問題や研究家の動向などについて豊富なインフォメーションを与えてくれましたね。こうした面ではやはいり個人的な交流の重要さを痛感します。

 

 人間はしょせん旅人です。町から町へ、国から国へそして転生を通じて惑星から惑星へと、果てしない旅を続けます。そうしてこそ知識と生き方を学びとり、宇宙的な方向へ志向するようになるのでしょう。私達の日常生活も「旅」のひとコマにすぎず、現象界自体は絶えず流動していますが、その底には絶対的なものが潜んでいます。それは宇宙の意識です。これを忘れては旅の行く先は定まりません。良き惑星への転生への転生のためのキップは『宇宙の意識に対する自覚』そのものです。お互いに頑張りましょう。