意識の声 No.59 より

1995年 6月号

 

カルマと瞑想

 

 某カルト教団の事件も教祖が逮捕されてひと山越えましたが、まだ予断を許さない状況のようです。それはともかくとして、私達はよくカルマという言葉を使用するために宗教的であると批判する人があるようですが、これは誤認です。カルマという言葉は宗教用語ではありません。これは古代インドの高級な文章語であったサンスクリットの名詞であって、もとは「カルマン(Karman)」といったのが、後にカルマになったのです。

 

 この原義は「行為」を意味していたのですが、人間の行為が死後の運命を規定するという古代インドのあらゆる宗教に共通する概念によって、この語が「業」いう意味に用いられるようになりました。特にウパニシャッドの哲人ヤージュニャヴァルキャが、人間の死後の運命について、「善い業によって人間は善いものとなり、悪い業によって悪いものとなる」と述べて以来、人間は善悪の行為によって善悪の果報を受けるという、いわゆる因果応報の概念が生じたのです。したがってカルマという語は、行為の結果と結果を支配する法則のすべてを意味します。ついでながらウパニシャッドというのは、古代インドの哲学書であって、バラモン教の聖典ヴェーダに属し、その最後の部分を形成しているので別名「ヴェーダンタ」ともいわれています。

 

 しかし私達がカルマという言葉を用いるときは「業」よりもむしろ「宿命」という意味を含ませています。たとえば「あの人には宇宙的カルマがある」という場合は、「あの人は今生において宇宙的な問題を探求するように宿命づけられている。それは過去世からの生き方の積み重ねによって、そうなったのだ」というふうに意味します。「アダムスキーは『宇宙的カルマ』という言葉を使用してはいない」といって私を批判する人がいましたが、これはアダムスキー哲学をほとんど理解していない、というよりも膨大なアダムスキーの文献をあまり読んでいないことを示しています。よく読めば、アダムスキーの哲学が宇宙的なカルマの法則を至る所でイヤというほど表現していることがわかるはずです。

 

 大体にアダムスキーは古代インド哲学に造詣が深く、むかしインドGAPの代表であったバナラス・ヒンドゥー大学教授のS・K・マイトラ博士と交流を深めていました。博士は古代インド哲学のトップクラスの学者であった人で、アダムスキーにとって古代インド哲学の情報源でもあったのです。ちなみに私はむかしマイトラ博士とかなり文通していましたが、非常に謙虚な文章に満ちていたのを覚えています。ついでながら、インドGAPは毎年一一月二〇日をデザートセンターにおけるコンタクトの記念日として祝賀行事を行なっていたと私は博士から聞いています。その後マイトラ博士の逝去とともにインドGAPは解散しました。

 

 それはともかくとして、因果応報の概念は哲学的な思惟によるものであって、もともと宗教の理念ではありません。一般の日本人は宗教と哲学の区別がつかないのに加えて、西洋哲学はおろか東洋哲学の知識もありませんから、私達がカルマという言葉を使用すれば宗教と関連があるかのように勘違いするのでしょう。ただし前記の某カルト教団がカルマという言葉を誤って濫用しているものですから、私達がカルマという言葉を用いれば彼らと同じ意味で使用していると誤解されますので、今後はカルマという語はなるべく避けるようにします。なにせ、その某カルト教団の教祖は「人を殺せばカルマ落としになる」などと、とんでもないことを言っていたのですから。

 

 「瞑想」という語も非常に誤解されています。これも宗教用語ではありません。広辞苑によれば「目を閉じて静かに考えること。現前の境界を忘れて想像をめぐらすこと」とあります。したがって本来宗教とは何の関係もありません。アダムスキー哲学では、人間のマインド(心)は視覚、聴覚、嗅覚、味覚の四感が各自で独自の解釈をして互いにケンカをするので迷いのマインド(心)が生じるとあります。この四感のうち、最も重要な役割を果たすのは「目」という視覚器官です。したがって私達がマインドを静めて内部の宇宙の意識と一体化する修練を行なう際には、邪魔になる「目を閉じておく必要があります。人間は何かの記憶を呼びさまそうとする場合、よく目をつむりますが、あれと同じです。

 

 そこで、これまで私は東京月例セミナーで「大宇宙瞑想」の実践を提唱してきましたが、これまたカルト教団が「瞑想」いう語を多用しているために、彼らと混同されるおそれがありますから、今後は「宇宙思念」と呼ぶことにします。これは自分が大宇宙の意識と一体であるというフィーリングを起こす方法を意味するのですが、もっと思念の枠を拡大すれば、「自分とは大宇宙であり、大宇宙とは自分である」という境地に到達するはずです。これはおそらく人間として最高の境地でしょう。スペースピープルは睡眠中でも創造主(宇宙の意識)を意識していると新アダムスキー全集第一巻に述べてありますが、私達はそこまでは到達し得ないにしても、限りなく創造主(宇宙の意識)を思い続けて、それとの一体化を図るようにするべきでしょう。困難ではありますがね。

 

 

 

何が正しいか

 

 私がアダムスキー問題の研究啓蒙活動を始あてから四〇余年になります。その間の言語に絶する苦闘については多言を控えますが、ずいぶん多数の人に出会って人間模様の織り成す現実の世界を見るに及び、「正しい」ということは何なのか、誰が正しいのか、誰が間違っているのか、という問題を私ほどに考えてきた人間はそう多くはいないでしょう。これは「正義」とは何か、「悪」は何なのか、にも通じる問題です。これは人類にとって永遠の課題なのかもしれません。しかし少なくとも、他人に迷惑をかけない、他人に不快感を与えないような生き方が「正しい」といえる方向にある、とは言えるでしょう。そのためには、とにかく「常識」を働かせることですね。年齢相応の良識ある言動をなすこと、これ以外に今のところ表現は思いつきません。私宛に殺到する郵便物を見て、そのことを痛感するこの頃です。

 

 

 

信教の自由の尊重と誠実さ

 

 何かに熱中するのあまり同じ関心を持たぬ他人を批判するのは誤っています。人間には信教の自由があり、誰が何を信じようと信じまいと全く自由です。自分の内部に物差しが一本しかないような単純さを排除し、いわゆる世間知らずになることなく、社会の万般を洞察して豊富な知識を持ち、バランスのとれた人格を持つ必要があります。

 

 先般の高松支部大会で多くの誠実な方々に接して痛感しましたのは人間の「誠実さ」という問題です。他人を非難せず、狂気じみた態度もなく、常に親切な暖かいフィーリングを保ち、良識ある言動をなして他人との融和を図ろうとする人達の集団は美しく輝いています。美しい人生とは、他人へ説教することではなく、ましてや自分が教祖的存在になることでもなく、謙虚さと年齢相応の礼節と良識を保ちながら、明るく楽しく生きることにあるのだということを、昨夜(二九日)高松から帰宅後、本日自宅の仕事場でこの拙文を綴るにあたって深く考えさせられた次第です。私は教祖ではなくて一介の文筆家にすぎませんが、何が真実かを模索することにおいては人後に落ちないつもりです。