意識の声 No.88 より

1997年11月号

 

★異星人に出会ったときの心構え

 

 日本GAP主催第一七回海外研修旅行「イスラエル聖地遺跡の旅」も近づいてまいりました。出発は一一月二二日で、二九日に帰国する八日間の旅です。実は七年前にイスラエルへ行ったとき、ガリラヤ湖畔の都市ティベリアの路上で異星人の女性とすれ違ったことがあります。そのとき私と一緒に歩いていた仲間が三人いたのですが、彼らはそのときには気づかなかったのですけれども、私はすぐに分かって相手の顔を凝視していました。それは若い女性で、白人タイプですが頭髪の黒いブルーネットでした。白っぽいブラウスに黒のスカートをひるがえしながらこちらへ来るその人は凄い美人でした。しかし接近するにつれて相手は顔を横にそむけるのです。この理由としては、スペースピープルは地球人のなかに彼らの正体に気づいた人がいると、顔を覚えられないように横を見たりして相手をかわすのだと聞いています。つまりスペースピープルは、彼らの存在を熟知している友好的な地球人といえども、直接に関係のない地球人に対しては自分の存在を意識されたくないのです。したがって、異星人の存在を肯定していて、なんとかして彼らに会いたいと願っている人が、やたらと「それらしい人」にまとわりついたり詮索したりすることは慎む必要があります。

 

 以前、都内の東京駅付近で働いていた異星人女性に私が気づいて、どこの惑星から来たのですかとテレパシーで話しかけたことが何度かありましたが、相手は決して答えようとはせずに、ただ微笑を浮かべているだけでした。結局、惑星名は分かりませんでしたが、地球人でないことは確実でした。それは別な機会に私がテレパシーで呼びかけたのですが、相手の反応たるや凄いもので、「まさにこれは異星人だ!」と驚嘆した次第でした。この女性も大変な美女で、顔は日本人タイプ。言葉も普通の日本語です。しかしこの人が、ある仕種をするときには、明らかにこの世界の人でないことを示していました。これでもって私に何かの反応を示したものと思われます。「あまり近寄らないでね」という反応でしょう。不思議なのは、こうした美人の異星人に会っても当方には男性特有のイロケが全く起こらないことです。たぶん相手から何らかの想念波動を放射して防衛しているのでしょう。

 

 

 

★創造主への接近が第一

 

 日本GAPの会員の方々はこの太陽系の全惑星に偉大な文明が存在することをよくご存じですから、一般人とは魂の感知力に大差があります。これは過去世からのカルマの結果によるのですが、その方々が異星人になんとかしてコンタクトしたいという熱望をお持ちなのはよく分かりますけれども、それよりも何よりもまず大宇宙の意識(=大宇宙の魂=創造主の魂)に対して接近する必要があります。これを「コンシャスコンシャスネス」といいます。これは「人間によって意識される宇宙の意識」という意味です。無数の銀河を含む果てしない大宇宙に思いを馳せて、これが全くの偶然の産物ではなくて、そこには人知で計り知れない「絶対的な意志の力」が充満していることを「感じる」のです。この感覚を高めるならばテレパシックな感知力も高まってきます。そうすればその人の波動はスペースピープルの波動と共鳴するようになりますから、そうなればスペースピープルも、場合によっては接近して正体を暗示するかもしれません。

 

 ここで大切なのは、こうした願望を持って精神の高揚化をはかろうとする場合、自分を他人と比較してはいけないということです。惑星群の文明や異星人問題などをバカにしてかかるような人と自分とを比較しますと優劣感が生じますが、これは禁物です。というのは、心が閉鎖されて外界を見る目がない人でも(つまり異星人問題を信じない人でも)、大宇宙の魂に本人の全身が生かされていることは絶対に間違いありません。そうでなければ生きた人間にはなり得ません。ですから、私達は他人を見る場合に、肉体の外観だけを見ないで、相手の内部に宿る生命力を見るようにすればよいのです。この生命力がすなわち大宇宙の意識または魂です。路上を歩いている人はみなこの生命力で歩いています。よく「宇宙の意識すなわち宇宙の魂を見るようにせよと言われても、そんなことは到底出来ない」とおっしゃる人がありますが、それは宇宙の魂なるものを形のないものだと思い込んでいるからです。形は「生命力」として立派に姿を現わしています。人間が歩いたり、飛んだり、跳ねたり、言葉をしゃべったり、メシを食ったり、飲み物を飲んだり、笑ったり、泣いたり、オナラをしたり、オシッコをしたり、ウンチをしたり等々、すべてこれらは聖なる生命力の現われです。そしてこれこそ大宇宙の意識すなわち魂の現われでもあるのです。このように考えれば、大宇宙の魂の存在に対する認識というのは決して難しいことではありません。自分の周囲にざらに見られることです。

 

 ところが、ある種の宗教ではえらく難解な言葉を用いて信者に説教します。つまり人間はみな罪人であって、このままでは地獄へ落ちる。そこで人類の罪を一身に背負ってハリツケになった神の一人子イエスは天に昇ったのであるから、われわれ罪人もイエスを信ずるならば罪をのがれて天国へ行けるのだ、というわけです。どうやらこの人達は「天国」というのは空間の遠い所にある霊界みたいな所だと思っているらしい。だいいち全世界の地球人を「罪人」と呼びつけていますが、一般の人達がどんな悪事を働いたというのですか。だれもが生活のために一生懸命に働いているではありませんか。失礼もいいところです。人間はすべて神の子であるのです。真理を知るのは案外にやさしいことなのに、なにかしら歪曲して考えるのが地球の宗教のようです。むかし何とかの塔という宗教の一派の女性が拙宅へ宣伝に来て、例によってムツカシイ事をしゃべりまくるものですから、私は新約の一節を持ち出して、これをどのように解釈するかと問い返したら、相手はアッというまに逃げましたね。

 

 

 

★絶対に希望を失うな、と自分に呼びかける私

 

 先日「UFO contactee」誌一三九号の発送のための梱包作業を終えた役員一同は、ある料理店で打ち上げの夕食会を持ちました。これは毎回実施している行事です。そこは畳敷の広い部屋で、私達以外に一〇数名の若い青年達のグループがいて宴会を開いていました。ところがそのグループの騒がしいこと話にならず、傍若無人。大喚声と耳をつんざくバカ笑いのカンタータ。日本という国はこうまで堕落したのかと顔をしかめたくなるような一夜でした。アメリカの料理店でこんな大騒ぎをやらかせば、拳銃を提げた用心棒に文句なしに叩き出されて警察へ放り込まれるでしょう。かなり以前、GAPの旅行でアメリカへ行ったとき、ロサンジェルス空港近くのデニーズ・レストランへ入ったのですが、ここに黒人の用心棒がいて腰には大型の拳銃を吊り下げているのです。そして店の隅にいた数名の黒人の少年達が少し大きな声を出したとき、その用心棒はすぐにその方へ歩いて行って威圧的な態度を示したために少年達は沈黙しました。アメリカはこんな国です。これから見ると日本はまさに出来のわるい幼稚園児の国? と言えば言い過ぎかもしれませんが、憂慮する声は各方面から上がっています。自由は途方もない放縦に代わり、礼儀を失った、やりたい放題の天国と化したのでしょうか。

 

 しかし、私は失望しません。毎度申すことですが、これは将来、日本が輝かしい平和と希望に満ちた世界の模範的な国家になるための過渡期現象とみています。悪夢のような狂気の軍国主義時代の極端な反動が半世紀後の今頃まわってきたのかもしれません。この責任は政府の教育行政にあると思われますが、簡単に解決のつく問題ではないでしょう。しかし権力闘争に明け暮れているように見える政治家のなかにも、日本の現状を憂慮して真剣に対策を練っている方々もおられると思います。それを信ずることにしましょう。

 

 しかし私達の個人的な生き方として何よりも重要なのは「許す」という気持ちです。これを失ったら自分自身が救われません。あの料理店の青年達も個人的に接すれば、案外善良な優しい人達なのかもしれません。そのように解釈してこそ自分で自分を救うことが可能になると思うのです。この「許し」こそイエスが徹底的に説いてみずから実践した法則であって、これはさらに「至上なる愛」へとつながります。

 

 

 

★テレパシーで語り合う動物達

 

 一〇月二三日付の毎日新聞夕刊に非常に翼味深い記事が出ています。アフリカの中部に位置するカメルーン共和国の赤道ギニアとの国境沿いのオラムゼ村で、先週、一人の漁師が幼児のゴリラを捕まえて帰ったところ、その夜に約六〇頭のゴリラが集団で村に襲いかかったというのです。銃で威嚇したらその夜は引き揚げましたが、翌日の夜またも大挙して押し寄せ、家のドアや窓を叩き始めたので、村長の命令で幼児ゴリラを群れに返したら、ゴリラ達は暴れるのをやめて森へ帰って行ったということです。

 

 子供を思うゴリラ達の愛情もさることながら、私が大いに感動したのは、彼らが集団行動をなすからには何らかの方法で意志疎通を図っているはずで、人間のような言語を持たないゴリラ達は明らかにテレパシーで会話を行なって、この行動に出たと思われる点です。この事件は、かなり以前にインドで、人間に密林を荒らされて食物に困った約四〇頭の象達が村里に出現して示威運動をやったのと酷似しています。この象達も「誰か」の指示に従って集団行動をなしたに違いありません。結局、動物達はテレパシックな方法で互いに会話を交わしているのです! このような「音声を超えた波動」による通信が出来ないのは人間サマだけ。考えさせられる問題です。それよりもゴリラ達の騒ぎの記事で動物の潜在テレパシー能力に思いを馳せることが肝要でしょうね。