調和のとれた活動のために

T.Sugiyama

 

新しい習慣を生み出すために利用する呼吸

 

空気を呼吸する肺の筋肉は随意筋と不随意筋から成っています。随意筋は、顕在意識によって支配され、不随意筋は潜在意識によって支配されます。つまり、肺は顕在意識と潜在意識の両方に通じる特殊な臓器なのです。

 

 腹式呼吸やその他の特殊な呼吸法をトレーニングした経験のある人ならわかると思うのですが、意識して新しい呼吸のリズムを作り出すということを何日もつづけておりますと、いつのまにか無意識のうちに新しいリズムで呼吸し始めているのです。つまり、顕在意識で行っていたコントロールが潜在意識の手に渡ったわけです。

 

 呼吸のリズムを意識して作り出しているとき、顕在意識(心)は潜在意識への通路を開こうとしているわけですから、この時に自分が実現したいことを一緒に念じてみると以外にもうまくプログラミングできるようです。塩谷式調息法にもこの原理がうまく取り入れられていると思います。

 

 すぐに効果が現れる例として、心と体をリラックスさせる方法があります。たとえば、仕事がうまくはかどらず気になっていることがたくさんあり、イライラしているときに目を閉じて「落ちつく、落ちつく、体が楽になる」ということばを繰り返しながらゆっくり呼吸していますと、視野が突然パッと明るくなり瞬間的に心の状態が変わってしまうことがあります。

 

 

 

創造活動を助ける呼吸

 

 全ての活動は「呼・吸」の原理に集約されます。酸素を取り入れ反応生成物を出すという現象は呼吸のほんの一面に過ぎません。万物の存在そのものが呼吸現象といえるのですが、ここでは人体について述べてみます。

 

 人間は何かを取り入れて、それを加工して吐き出す一種の変成器にたとえることができます。そこで、「吸」にInput、「呼」にOutputという意味を与えますと

 

 吸 即ち 読む、聴く、見る、感じる、触れる、摂取

 

 呼 即ち 書く、話す、描く、観ずる、動く 、排泄

 

という対応が成り立ちます。

 

 これらの各機能の組み合わせによって創造活動が成り立っているわけですが、面白いことに、肺の呼吸によって各機能が活性化されるようです。実際に、私たちはこれを無意識に行っている場合があります。例えば、目に映るものや聞こえる音を知覚したり、物を持ち上げるために力をため込む時に「吸」が過剰になっており、書いたり、話したり、動作が始まった後には「呼」が過剰になっています。

 

 まとめると、次のようになります。

 

1、息を吸っているときには、取り込む効率が上がる。

 

 例えば、実際に何かを見たり聴いている時に息を吸ってみるとそれらが自分に迫ってくるように感じ、感覚が敏感になります。また、何かを思いだそうとするときに、吸のタイミングでパッとイメージが浮かんでくることがよくあります。

 

2、息を吐いているときには、表現する効率が上がる。

 

 例えば、スケッチを描くときは、息を吐いているときの方がイメージを紙面に投影しやすくなります。落ちついて力強い線を描くためには呼のタイミングで手を動かすのが効果的です。

 

 私は仕事柄同じ姿勢で座っている時間が長く、昨年の冬に腰を痛めたことがありました。このとき、スポーツドクターの指導を受け、ありふれた指導があるのかなと思っていたのですが、意外にも運動の中に呼吸を取り入れることが非常に大切な要素だと言われました。

 

 腰痛治療に必要なストレッチ体操は次の要領で指導を受けました。

 

「動作開始前に鼻から息を吸い、体全体に意識を巡らせ、動作が始まったら同時に口からゆっくり息を吐きなさい。」

 

 医学的には息を吸うときには交感神経が活性化され感覚器官は敏感になり、吐くときには交感神経は抑制され筋肉は弛緩状態になることがわかっているそうです。

 

特に息を鼻から吸うとき、鼻の粘膜から吸収された酸素が直接脳に供給されるから知覚はさらに敏感になります。この緊張と弛緩を2分の休憩時間を入れ、3回くらい繰り返すと筋肉は効果的に強くなり、筋は実際に伸びるのだそうです。

 

 スポーツドクターご自身が椎間板ヘルニアで苦しまれたことがあるため説得力のある効果的な指導を受けることができました。

 

 自律神経を意識的にコントロールできる理由は肺の筋肉が随意筋と不随意筋の両方を兼ねているためであり、様々な技法で受け継がれている古代の知恵の中で、呼吸が重要視されている理由がここにあります。

 

 

 

Input と Output のバランスを取ること

 

 知力は「吸」に属し、集中力は「呼」に属します。

 

 本来知る行為は、創ることの補助としてあります。抽象的にいいますと、人間は知識・物を変成する変圧器です。入力から出力へのプロセスが常にバランスするように調整されているとき、眠っていた能力が活動し始めます。例えば、あるテーマの下に取り入れた知識を統合して論文を書いたり、物を作るという行為は、理解と記憶を深め、安心感を生み出します。イメージ力を育てるには、紙に描く習慣を持つことです。

 

 逆にこのプロセスが滞った時、神経系は混乱し病んでしまいます。例えば、気分本位に知識を大量に取り入れると、知識と経験との間に大きなギャップが生じ、心に焦りと不安を生じます。

 

 いかなる能力訓練も吸い込んだものを統合し、吐き出すことを繰り返して上達します。呼吸はその象徴です。感じたことを伝え、聞いたことを話し、読んだものを書き、見たものを描くという情報の経路を作ることにより理解し、経験の記憶として刻まれます。教育に携わることによって一つの学びのプロセスが完了する理由はここにあるのです。

 

創造プロセスの流れを簡単に表現してみると

 

(1) テーマを決める

 

     ↓

 

(2) 行動を通じて感覚器官から知識を得る

 

     ↓

 

(3) 思考して知識を統合する

 

     ↓

 

(4) 統合した結果を行動で表現する

 

となります。この流れがうまくいっているかどうかを省みることは能力開発の大切な作業だと思います。

 

 

 

想念の管理

 

 自分が持つ想念と、それがもたらす結果にいつも注意を払っていると少しづつその因果関係が見えてきます。普通は忘れた頃に結果となって現れることが多いので、イメージの重大性に気付かないのだと思います。

 

 私は、一年間の計画を立てる際に、実現したいことを箇条書きにして記録しておりますが、あとからふりかえってみると6カ月くらいでほぼ達成されていることに気づきます。

 

 例えば、ある実験を行う際に必要な特殊な物質を入手しなければならないとき、たまたま通りすがりの道に不法投棄してあるゴミの中から発見したことがありました。通常ならば不法投棄されたゴミを見て、心ない人に対して困惑の念を持つだけですが、潜在意識はこの中に必要な物があることを「好奇心」という形で知らせてくれました。

 

 本来ならば「いかなるイメージでも描くことには責任がともなう」ことをいつも自覚していなければならないと思います。しかし、イメージが現実になるまでに長い期間がかかるので、実現してしまったときにはイメージを描いてしまったことを忘れてしまっている場合が多いのが問題なのです。

 

 潜在意識の活動は、自分が気づかないうちにいつのまにかイメージ通りの状況を作り出してしまいます。

 

 マーフィーの名言によりますと自分の将来を心配すれば、そのイメージはやがて自分の環境に現れてしまうと言われております。

 

 だからたとえ、自分がどんなイヤな場面に出会ったとしても、それは過去において自分が少なくとも一度は強く想ったことがあるイメージの断片であるのです。

 

 私は以前、大学入学試験の日に病気で寝込んでしまったらどうしようという心配をしたことがありました。そして受験の日になって突然高熱を発してしまったのです。それでも受験しましたが、最悪のコンディションで答案を書かなければならなかったことを憶えております。

 

 このような例に代表されるように「これは自分が望んだことではない」と思ったとしてもそのようになってしまうイメージを不安感と共に過去に描いていた可能性は十分にあります。「恐れていることが起こる」という意味はここにあるわけです。心配していることが起こってしまうから、自己防衛本能に従って自ら想念の力を封じ込めてしまったという人間の失敗があり、それを正当化する社会が構築されてきたようにも思えます。

 

 エイズウィルスの潜伏期間が長く、因果関係がしばらく不明であったようにイメージと現実との間に長い潜伏期間があるために因果関係があることが全ての人に認識されるに到っていません。

 

 最近、子どもの自殺は、ウィルスによって伝染するということがアメリカのテレビ番組で報道されました。このウィルスというのは、マスメディアを通じて流される自殺事件のニュース情報なのです。テレビを通じて伝達されたイメージが人を死に至らしめることが疫学的に実証されたことは画期的なことだと思います。

 

 日本では多くのテレビ局が午前中のワイド番組で殺人事件や自殺事件を事細かに報道しますが、これを見ている人たちは知らないうちに感染しているかもしれません。

 

 競合するイメージ、破壊的なイメージをもっていることに気づいたらそれらを排除することが大切です。地球の歴史の中でこのことが守られていなかったために戦争が続いてきたのだと思います。このことは身近な生活のなかから芽生えることだと思います。例えば、自分の子は可愛いが他人の子は可愛くないという相反する心の状態があったとします。このことが親を過剰な教育競争へ駆り立てて子どもを歪ませるかもしれません。我々地球人にとっては難しいことですが、「自分の子」と「他人の子」というように分けてしてしまい、無意識のうちに敵と味方をつくってしまうことが社会の混乱を招いているように思えて仕方がありません。

 

 私がまだ5歳の時に、テレビで初めてバレーボールの試合を見たとき、まずルールがわからないので、「テレビの人は何をやっているの?」と父に尋ねたら、「自分のチームのところにボールを落とさないようにするゲームだよ」といいました。

 

 しばらくゲームを見ていたらチームのある選手がボールを取り損ねました。そこで、「なぜボールを落としたの?」と尋ねると、「相手のチームの所にボールを落とそうとしているんだよ」といいました。私はこのとき、心にものすごい葛藤を生じたのを憶えています。相手の所にはボールを落とそうとしているのに自分の所にはボールを落とされたくないという矛盾することを大人がやりあっているということにショックを感じたのです。この矛盾感は今でも私の心から離れません。

 

 

 

想念の力

 

 蛇足になりますが、イメージの意味について以下に少し綴ってみましょう。

 

 イメージの世界は、単なる空想のためにあるのではありません。訓練することによって自分の手足と同じくらいの働きをするようになります。私の関心は自然科学にありますので、イメージの実験室を用意し、そこに、定規とコンパスと、様々な材料、測定機器、工作機械類、その他もろもろの道具を描きました。はじめはぼやけたイメージであっても、何度も何度も繰り返し描き続けることによって極めて精密な質感が得られるようになります。安易に紙と鉛筆を使うことを避け、全てのプロセスをイメージの中で実行するように心がけています。紙に描くのは最後の段階です。何年も努力すれば努力しただけの成果が出ました。

 

 目的を明確にするということとイメージを保ち続けるということはイコールです。

 

 これは一つの参考にしてほしいのですが、イメージ力は実際に手足と同じになることがあります。つまり、想っただけで遠方の物品を引き寄せたり、目の前の装置類を作動させたり、へたをすると狂わしてしまったりします。

 

 私の友人の1人は想念だけで金属を自在に切断したり溶接するという芸当をやってのけます。このような芸当そのものは特殊な例ですが、通常人と比べて想念の密度が違うだけです。それはイメージの臨場感の強さに比例します。「想い」というものが間接的ではなく直接この宇宙に作用していることを信念とすればイメージの作用は強くなるようです。

 

 想念を自在に駆使する人は、過去において恐怖をぬぐい去る試練を経ている場合が多く、その後は幼子のように天真爛漫な気根を発揮するようになるようです。

 

 私が好きなことばを紹介しておきましょう。

 

 Imagination is more important than knowledge.

 

                       Albert Einstein

 

 想像することは知識よりも大切である。

 

              アルバート アインシュタイン

 

 

 

感覚器官の使い方

 

 人間に与えられた感覚器官は、評論家になるためにあるのではなく、創るためのフィードバック機構として正しい機能を発揮するようにできています。

 

 仮に、知ることが主体となり評論家になってしまうと、単に「好き」「嫌い」のレベルで行動してしまうようになります。これは自分が環境に支配される姿です。もっと悪いことに、ある対象物(例えばバラ)に対して、「匂いはいいが」「硬いとげがあって痛い」という場合、「好き」と「嫌い」が共存してしまいます。これは心に葛藤を生じる要素になります。このように各感覚器官が協調性を失うような使われ方をするのは誤っています。

 

 感覚器官が協調するようになるためには2つのポイントがあります。

 

 1、原因の世界から変えてゆく恒久対策

 

 さきほど、想念を管理することについて述べましたが、2つの相反することを思いの中に共存させたら、いつかは潜在意識が現象化してしまいます。ですから根本的な解決のためには、敵と味方をつくりだすような矛盾した想念を持たないことが大切です。でもこれは地球の文化を根底から変えるほどの問題ですから大変に困難な取り組みだと思います。

 

 特殊な例で、スコットランドの浜辺にあるフィンドホーン共同体では、人間と植物とのコミュニケーションを通じて多くの奇跡が実現しています。例えば、トゲのあるバラに向かって「おまえを傷つける者はどこにも居ないのだから、もう鋭いトゲはつけなくてもいいのだよ」と語り続けることによって、本当にトゲのないバラが生まれています。この例は、感覚器官が分裂を起こしてしまうような現実が人間の矛盾した想念によって作られているということを示唆しています。

 

 2、結果の世界をうまく活かす対策

 

 トゲのあるバラに対して、創ることに重きをおいて行動するならば、「匂いがいい」ことから香水を作り出したり、「硬いとげがある」という特徴を活かして鋸のような工作道具を作り出そうと発想するかもしれません。評論家的な行動基準と全く違うところは、知覚した知識に自分が新しい意味を与えようとしているところにあります。そして発想に従っていろいろと試している過程で、ある発明につながるかもしれません。この場合、各感覚器官は協調して働き、創造活動のためのフィードバックセンサーとなります。好き嫌いの行動基準とは無縁となるのです。

 

 アダムスキー氏が感覚器官は奉仕のために結束させるべきであって裁きに利用すべきではないと言った意味がここにあると思います。神への奉仕とはまさに創造活動のことです。

 

 

 

まとめ

 

 以上、呼吸、想念、感覚器官をキーワードとして調和活動のための一考察を試みてみました。書き終えてみて自分でも説明しにくい箇所がいくつもあり、理解不足を痛切に感じます。得た結論を口で言うのは簡単ですが、本当に理解するには、おびただしい経験の積み重ね以外に道はないと思います。