かりそめの世界

ジョージ・アダムスキー

 

 かりそめの存在として、私たちはかりそめの世界、すなわち範囲のある世界、形態の世界に住んでいる。私たちは肉体の感覚で、周辺に存在するある程度の形、一定の色彩、固有の密度あるいは重量を有するように感じられるものを理解する。つまり、うるわしさの中の具体的なもの、あるいはほとんど変化しないものには気づくが、創造における常に活動している力の壮大さ、すなわち微小な原子の絶え間ない運動は、本源がまるで見えない人間には、形態の世界における視覚の段階で知覚されることはまずない。しかし見ようとするならば見ることはできるのである。もし私たちが "意識の目" で理解するようにするならば "大いなる実態の輝き" すなわち "想像もできないような栄光" を目にするかもしれない。あるいは愛の目と言ってよいかもしれない。愛こそ真の知覚の経路であるからだ。それは時間と次元をなくし、空間を無限の広域にまで拡張し、すべてを一体化する。

 

 私は今、いわゆる個人的な愛のことを語っているのではなく、結合する無限の力、すなわち磁力というもっと大きな面について話しているのである。なぜなら個人的な愛は、それが結集されている磁力の中では美を理解するが、他の表現体については嫌悪感をいだくからだ。一方、宇宙普遍の愛はその崇高な光の放射をあらゆる方向に広げ、闇全体を一掃する。ゆえに心の中にその成就を願い、最大限に確信することで、不滅の視覚の段階へ向けて、かりそめのカセを打ち砕くことにしようではないか。不滅の視覚の段階である "意識的意識" こそ、もはやそれ自体にはいかなる制限された面をも保持することはないからである。私たちはこの段階に入ると、あらゆるこの世の概念を超越しているため、現象界にある内奥の実態に気づきつつ、"意識の目" ですべてのものを見渡し、宙に高く浮いているのを覚えるようになる。その中では、私たちは活動の始まりが二つの経路にあるのを見る。そこを通って諸々の化学元素の力は相互に結合すべく流れ出ていくのだ。それらは化合するにつれて、熱湯の活動に類似した一つの活動を生み出す。そして、こうした化学元素の接触により、三番目の元素が放出され、最初の活動で運ばれてきたエネルギーとパワーによって活動に入ってゆく。この三番目の元素は順に、放出時にそれ自体よりもわずかに高められている遊離原子と接触することで、もう一つの活動を生み出す。そしてこの活動は宇宙全体を通じて起きているのである。

 

 かりそめの存在を見渡すとき、私たちは無機物、野菜、動物、鶏と呼ぶ様々な顕われの段階を目にするが、人間がこうした様々な形態の活動を第一に観察するものでありながら、それを一風変わった態度で傍観することに私たちは気づく。人間はこうしたもののいくらかはわずかに理解しているため、自分の側に呼び寄せて役立てるが、理解できないものは退け、不快、悪と呼称する。しかしながら、あらゆる活動を愛という崇高な知覚で見つめるさらに高い段階では、人間から醜いと判断されそうな地上の粗雑な物ですら、最も優美な美を秘めているのがわかる。

 

 細胞の作用と反作用は、人間の意識がまだ思いついたこともない優美な幾何学模様を、いつまでも創造してゆくだろう。そして創造というこの永遠に進化してゆく "つづれ織り" には光という金の糸が通っており、"意識" の光で気高い後光を全宇宙から織りなしている。そしてこのすべてに浸透してゆく輝きは放射状に鮮やかにきらめきながら、宇宙のあらゆる形態をまとっている。形態の世界に存在する摩擦や破壊の要素ですら、人間の知覚には不快でも、"無限なる者" の美を秘めている。それは万物の融合−−結びつきであり、全知覚が理想とする万物の統一でもある。形態の世界の根幹に流れているものを見通す "意識の目" こそが真の美を見つめてきたのだ。この世の人間は徐々にこの状態へと進化してゆく。すなわち "無限なる者" の大実験室からできる化学元素を凝視することで、人間はかつては悪と呼んだものを自己に有利に用いはじめる。こうしてその肉体は良質の生地をまとうことになる。それは感受性のより大いなる発達へと高まり、そこでは以前知らなかった物事が知覚できる。人間はこうした活動を、相互に、また本人自身に関連づけはじめ、ますます大いなる光の一部となってゆく。

 

 だが、こうした展開が遅い場合には、この世の者たちの間に大きな混乱と躊躇が生まれる。絶えず利己的な想念を保持しているためである。しかし、進歩している人々は無邪気に他の人々が非難するものを分かち合い、知覚力や理解力が乏しいがゆえに、人間は最良の友を見捨て心配してやる価値もないと非難するようになるのだと示唆する。以上が大多数の地球の住人が生きている状態である。

 

 私たちが物質界を見渡すとき、それは一体どのようにして毎日直面するあらゆる反目(対立)を切り抜け進展してゆくのか時折考えることがある。しかし、それは進み出てゆく。なぜなら、その引きひもは人間が神とあがめているものへ、あるいはこの神聖なものにどのような名称をつけようとも、その方向へ引き上げられるからだ。しかし、人間が心に抱くような神は見いだせない。なぜなら、意識の頂上からは、私たちはこれまでにいかなる人間に作り出した神ではなく、混合、分割、作用、反作用、創造と再生、活動という。かぞえきれない数の様々な化学元素を理解することになるためである。そして、こうした特有の活動の外周は想像することができない。外周というものは存在しないからだ。私たちは周囲にあるさらに微細な段階においては、"神性" を活動、すなわち絶え間ない活動、意識的な知的活動として見る。つまり、不変の親和の法則に支配された活動として見るのである。こうしたものを、私たちは、万物に浸透すると同時にそれを理解しうる意識の目で見るからだ。この知覚の段階では、私たちは、宇宙には苦痛も、またいかなる苦痛の兆候もないことに気づくことになる。心の意識の死すべき世界においてのみ苦痛が存在するのだ。それは理解力を妨げる無知のためであり、それが拒絶者に苦悩をもたらすのである。

 

 物質は絶えず神聖な状態に向かって動いており、人間も肉体も同じ状況下にあることを知るにつれて、宇宙普遍となるだろう。宇宙の化学元素は、生命活動の及ぶあらゆる分野で奉仕するように創造されているからだ。物質の原子と宇宙普遍の状態にある神聖な本質との間には分離はない。根源の実態が振動の段階をゆすると、神聖もしくは意識的な力は、とりわけ活動のみには気づくが、一つの行為ともう一方とを差別することはしない。神聖それ自体は、どのような名称をつけようとも、その外側には何も存在しないすべてを見る意識すべてを知る意識、すべてが可能ですべてを創造する意識であるからだ。ゆえに、この宇宙の広域よりあなたをこの死すべき世界に呼び戻す。 "無限なる者" の栄光ある自由からもう一度、あなたをこの有限の域へ連れ戻す。あなたが生き、物質現象の域にある創造物を理解しなければならない場所はこの大地であるのだ。根本的には、あなたが創造物を理解するのに自らの意識を拡張することを学ばなければならない場所はこの地上なのだ。ここで、あなたは人間の視覚で見ようとするだろう。だが、あなたが賢明であるならば、神聖なる視覚に従うことだろう。なるほど私たちは大地の肉の体で生きなければならないが、生きている限りは、私たちが宇宙に住む者であるという意識も持ち続けようではないか。

 

(訳 H.K)