永遠なる存在 The Everlasting Presence

ジョージ・アダムスキー

 

 「父とは霊(スピリット)であり、父を礼拝する者達は、霊と真理の内に父を礼拝しなければならない。」この言葉は、イエス・キリストの言葉であり、イエスはこのことを心の奥底から知っていて、彼の "肉なるもの" を父と一体化させていました。これと同様な言葉は、キリスト教成立の数百年前に生きていたペルシャ人の教師、ゾロアスターの次の言葉です。「霊(スピリット)は霊にしか明らかにされることがない。物質的な星々も、物質的な月や物質的な地球、物質的な人間も、霊を支配するものではない。人間の目に見えない深妙なものが "因" であり、あらゆるものの支配者である」インドにおいて悟りを開いた者ブッダ(釈迦)は、その偉大な霊を「あらゆるエネルギーの源である際限のない静寂」として説明しました。

 

 "永遠なる存在" はあらゆる時代を通じて、あらゆる人々に知られていましたが、それを理解した人は、ほんのわずかでした。あらゆる時代の偉大な教師達は、それを意識するようになっていましたが、これらの賢者達に従った者達は、そのあかしを礼拝するうちに、その真の存在を見失いました。過去及び現在のさまざまな宗教のすべては、この限りない存在の上に基礎を置いています。それは次のように呼ばれてきました。神、霊、エホバなどと。すべての人種、すべての宗教は、この神性に異なった名を付けています。けれども皆、実際には一つのもの、 "ただ一つの存在" を礼拝しているのです。

 

 それはあらゆる物の創造主です。各人、各グループはこの存在の各々の独自の解釈とこの存在との関わり方を持っています。幾人かの科学者は、これをエネルギー、または力(フォース)と見なしています。彼らはあらゆる物の活動を研究し、形ある物(フォーム)を超えて、その物に生命を吹き込むカへと到達します。徹底的な探究を通じて、科学はあらゆるものがこの力によって進化することを見いだしました。この力は破壊できません。この力より大きいものも小さいものもありえないからです。それは一つの面から他の面へと性質を変えられることができますし、一つの形ある物から、他の形ある物へ自らをみじんも失うことなしに形を変えることができます。

 

 科学者は、私達にエーテルとは、最も偉大なエネルギーの宝庫であり、空間と時間そのものであるということを告げています。それは際限がなく永遠で、物質を作り出すその結果によって自らを知らしめる "目に見えないもの" です。ふたたび、それは "永遠なる存在"それ自身であると、もう一度申しておきましょう。科学は、外側の形ある物といかにかかわろうとも、完全な理解のためには、やはり、目に見えないパワーへ到達しなければならないことを悟っています。それにもかかわらず、世界は自分達がラベルをつけた神々や半人神のことで差別をし、言い、相互に反対して、分割できないものを分割しています。その全てのパワーが何と呼ばれようと、何が問題となるのでしょう。もし、科学者が、それをエネルギーまたはエーテルと呼ぶことを望んでも、また心理学者達がそれを心と見なしても、もし、正統派の教会がそれを神と呼び、もし、インディアンがそれを偉大な霊(ルート・スピリット)と話し、そしてイエスがそれを "父" と名付け、あるいは "意識" と呼ばれても、それは依然として同じ、すべての "根源なる因" ではないでしょうか。このあやまちは、それを呼んでいる名前の中にあるのではなく、他人が持っていない何かを各自が自ら持っていると信じていることによって起きている分割の中にあります。

 

 そのパワーがあらゆる人々に等しく、全能で、全てを知り、遍く存在するものであることを理解できさえすればよいのです。それは、他の名の下に働くと同様に、もう一つの名の下にも完全に働きます。それは、個人的な実体ではなく、非個人的な霊(スピリット)です。人間の反対は、その存在に影響を与えません。それは、人々の分割に無関心です。それは相異を知らないからです。自らの内部に生命をもつすべては、その奥にある霊(スピリット)のあかしなのです。

 

 自らの理解に応じて、このことを教えた多くの預言者がいました。各教えはそれが示される時代の必要性にそってもたらされたものです。これらのさまざまな教えから生じた各組織は、次々にもうろうさの中で生きるようになってしまいました。キリスト教も、その他と同様に、いつかは一つの組織された教会としてはなくなるでしょう。仏教、儒教、イスラム教、そして、すべてのイズム(主義)は、このことを理解できる前に、手を結ばなければならないでしょう。個人礼拝による分割は "普遍的父性" が達成され、人間の兄弟愛(brotherhood)が真実になる前に廃止されなければならないでしょう。多くの人にとっては、それらの示される教えを受け入れることはむずかしいのです。それらは冷たく見え、魅力あるようには思われません。哀れみ深く、慈悲深い、神の子供達が善であるときには、それを愛し、悪であれば、それらをこらしめるような個人的な神を信じてきた人々は、しばしば、私達の "非個人的な神性" の概念からは拒絶されます。

 

 しかし、万物を支えているパワーや "宇宙の英知" が、人間の嘆きや、痛み、哀れみや喜びのようなものによって影響を受けると仮定することは、何と不合理なことでしょう。私達が悲嘆にくれていると時、それは回りにいる他の人達に影響を与えることを私達は知っています。それでは神が悲嘆にくれることがあったら、何と恐ろしいことでしょう。"全宇宙"が悲嘆にくれるだろうからです。

 

 私達は電気のパワーについて、過去50年間に多くを学んできました。私達は電気による加熱装置を製作しましたし、電気冷蔵庫を作り出しました。私達は電気を熱であると言うでしょうか。電気は冷たいと言うでしょうか。いいえ、どちらでもありません。それはパワー(力)です。熱と冷たさは、活動の違った形態によって生み出される力の結果にすぎません。その存在は次のように説明されるかも知れません。それは、個人や個別化された経路(チャンネル)を通じて表現される時にのみ個人的になる非個人的パワーであると。

 

 最低の状態である憎しみから、最高の状態である愛に至るまで、すべての感情は、偉大な普遍的な力の結果です。それは人間を通り抜ける時、人間が自らの意識の中で何をつかもうとも、それは、その通りになるのです。その力強い存在は、個人的な実体を必要とする人にとっては母であり、父であり、妹、兄、夫、妻、あるいは恋人です。それは各自の必要に即したあらゆるものです。しかし、パワー自身は、非個人的であり、普遍的なままです。あなたは「このことは、人間には途方もない責任を置くことになる」というかもしれませんが、自分の行動に対する責任が、各個人の内部にあることは真実です。人は愛するとしても、あるいは憎むとしても、どんな経路にもその力を使いうるのです。

 

 イエスは「すべての人は自分自身の重荷を運んでいる」といわなかったでしょうか。やがて、すべての人が、この "真の自己" (real self)が自らの最大の教師として、各人に内在していることを知る時が来るでしょう。体験を通して、人は真の自己といっしょに正しいやり方で働くことを学ぶでしょう。
私達の聖書の中にこういう言葉があります。「彼らは、自分の隣人であるすべての人、自分の兄弟であるすべての人に "エホバを知りなさい" と言って、それ以上教えないだろう。なぜなら、彼らは最も小さき者から最も偉大な者まで "私" を知るであろうからだ」

 

 

 

*エマーソンは述べています。「プラトンが考えていたことを私は考えうるかもしれない。聖者が感じていたことを私は感じるかもしれない。いかなる時、どんな人にふりかかったことでも、私は理解することができる」。そのとおり、本当です。なぜなら同じ霊(スピリット)が全てにみなぎっているからです。
同じ "力" と "英知" が、すべての人の内部で顕れを待っています。その存在は、唯物論者と唯心論者の両方にとっても、個人主義者と普遍主義者、罪人と聖者にとっても "父" なのです。それは世界を創造しますし、最小である原子を形作ります。それは際限なく大きいばかりでなく、限りなく小さいものですが、しかし、永遠に普遍なるものです。
「ただ一つの霊(スピリット)があり、あらゆるものは、そこから生じ出るのです。」

 

*訳注 ラルフ・ウォルドー・エマーソン(Ralph Waldo Emerson)1803年5月25日ボストンに生まれ、1882年4月27日午後8時50分没。
あまりにも深遠で、博識であったエマーソンは米国に、ある使命を持って生まれた人と言われています。偉大な詩人であったウォルト・ホイットマンとは異なった役割があった人とみなされています。

 

(訳 H.K)