生きてゆくための言葉 WordsToLiveBy
ジョージ・アダムスキー
私たちが生命を知っているように生命を見ましょう。私たちが自然の中に毎日観察することができるように、真実を観察するならば、私たちは物質で作られた形ある物を見ます。しかし、私たちは、目に見えない英知やこれらの形あるものを支えている力を見ていますか?
人に例えるならば、私たちは "生命の呼吸" というものを見ていますか? これがなければ人は生きることはできません。けれども、この生命の呼吸は形ある物の "魂" であり、それが形ある物を通して "意識" が表現することを許しているのです。
ひとたび、人と生命の呼吸の間に分離が起こるならば、私たちは「死」と呼ばれるものを体験します。
人が生命の一つの面だけを考えて極端に行ってしまうとき、彼はすでに半分死んでいるのです。こうして狂信的になるでしょう。というのは、人は "創造主" が一単位として創造したものを、分離できないからです。「地によって誓うな。というのは、それは "父" の足台であるから。天によって誓うな。というのは、それは父の玉座であるから」という聖書の言葉は、まさにそのことを意味するのです。
けれども私たちは、天を精神的、地を物質的と呼ぶことによって、その二つを分離させる傾向を持っています。
これは、ある極端か別の極端へと行ってしまう人に起こる一つの例です。そして、自分たちが引き受けたことに非常に誠実である多数の人々がいます。ある人たちは同時に二人の主人に奉仕することを試みています。そして、これは分離を引き起こして、その分割は、ある主人に奉仕している間、別の主入を騙すことを彼らに許すのです。
人生の目的を成就するための適切な方法が一つだけあります。そして、それは、これらの両者を一つにして奉仕することです。あるいはイエスが「あらゆる物事の中庸」と言ったようにです。そしてそれはバランスなのです。
これが実践されないとき、何が起こるでしょうか? 人がバランスを失うとき、彼はさまざまな道を通じて幸福の感覚を取り戻そうと努めます。これらのあるものは物質的です。そしてあるものは精神的です。しかし、それぞれの場合、彼は何かが欠けていると感じるのです。
そして、彼は絶え間なく何かを捜すのです。彼は内部に感じる空虚さが満たされることを希望しながら、ありとあらゆる種類の文献を読みあさります。
どちらの面も彼を満足させません。ほとんどの場合、その個人は精神的な完全さまたは物質的な蓄積で自分の関心を奪おうと努力するでしょう。しかし、どちらも幸福や生命の充実のフィーリングをもたらしません。
彼はどちらの場合でも人生を半分表現するだけなのです。彼の主人は恐怖なのです。たとえ彼がそれを知らないとしても…。
バランスある状態の存在に彼が戻ることを妨げる不安定のフィーリングを彼に与えるのは、この恐怖なのです。というわけは、恐怖とは信念の欠如の状態だからです。
私はこの仕事で注目すべき個人を知りました。特にある人たちは、人生の現実の中で、美しい信仰を楽しんだのです。これは彼らが他の人たちの諸問題を解決するときに "宇宙" からの正しい指導を受け取ることができるほどでした。そして家族の中には一体を、そして多くの人たちに新しい希望をもたらしていました。
私の知るかぎり彼らには不足するものが決してありませんでした。けれども、今日彼らは、このすべてを失ってしまいました。それは彼らが今日書いたものを、過去に書いたものと比較することによって全く明らかです。
過去には個人的なアドバイスの注意は、めったにありませんでした。今日の彼らは、以前よりも彼らの生活が、より困難になっています。人はバランスある状態の中で `自由な心` を持つとき、信念は彼らの必要なものを産み出すのです。
私が知っていた別の顕著なケースは、一人の若い女性でした。彼女は "宇宙の目的" にとても波長を合わせていたので、彼女は美しい詩を書いたのです。そしていかなる分野でも彼女の書いた詩は "宇宙のリズム" を持っていました。彼女は、いわゆる精神的な人生と物質的な人生を一つとして生きていたのです。
彼女が自分を支配するために、自分のアイディアと心を外側からの影響に耳を傾け変化させたとき、彼女は生命の物質的な面にあらをさがすことを始めました。彼女は、自分が以前に表現した "美しさ" のすべてを失いました。彼女は空しさを満たすための何かを捜し始めました。
その何かとは、以前には存在しなかったものです。彼女は殆ど、自分自身の生命を奪ってしまうほど混乱してしまいました。彼女の最も近い親族は、一つの協会の中に彼女を置くことによって、彼女のこの行為から彼女を防ぎました。
もし彼女がこうなってしまう前に元の状態に戻っていたなら救われていたはずでしょうに。人は生命を極端にすることや、極端になることによって (物質的な面を拒絶することにより、唯一、精神的〔霊的〕な面を支持することによって、あるいは精神的な面を拒絶することにより、唯一、物質的な面を支持することによって) 精神的になることや神聖になることはできなせん。
本当の神聖さは、中庸によって充実した人生を生きることによってのみ得られることができるのです。
あなたは同時に二人の主人に仕えることはできません。二人のうち一人はあなたを押しつぶしてすらいます。充実した目的のある人生を持つためには、信念を伴う知識と、創造主が彼らの運命として人に与えた才能の実行を必要とします。
知識と信念とは「行動」が伴わなければ価値はありません。(宝の持ち腐れです。)
永遠の印を運ばないのです。
(訳H.K)