カルマとは何か

ジョージ・アダムスキー

 

 東洋哲学を研究する者にとって「カルマ」という言葉はかなり不吉な意味を持ちますが、それ以外の人々はその言葉をヒンズー教の迷信であると考えます。実際にはカルマとは代償の法則が実行されることであり、それは存在することが周知の事実であるのです。偉大な科学者であり哲学者でもあったアイザック・ニュートンは自分が発見した法則を解くことで、数学と化学の基本理論に存在する前途の法則を提供してくれています。あらゆる作用には同等の相対する反作用が存在しなければならないと言いましたが、これは「人間の蒔くものは何であれ、また刈り取るであろう」というイエス・キリストの言葉にただ科学的に手を加えたに過ぎません。

 

 代償の法則は、キリスト教では死後、諸々の罪について罰則を受けることであると解釈され、インドのある宗派では、自然の法則に従わない者は動物になってこの地に生まれ変わると言われています。この世界に存在する科学と宗教のあらゆる考え方のなかから作用と反作用の法則と言われます。しかし、それは非常に歪曲されています。この法則がどのような言葉で表現されているかは殆ど問題ではなく、それは絶対に間違いのない永遠の法則に従うものなのです。今日一般の人は明らかに罪のないものに作用して生じる不幸が理解できないため、宇宙の力に対して心を閉ざして、自分をつくってくれた創造主を不公平な神だと非難します。しかし、人間の視野がこの単なる“結果”の世界を超えて広がれば、あらゆる活動のなかにある“原因”に気づき、ひとたび活動を起こしたものは、必然的にその活動による表現が完全になるまでは持続しなければならないということがわかってくるでしょう。

 

 カルマの法則は成長の法則あるいは進化の法則にとって必要なものです。それは罰則ではなく、過去に犯した誤りを正すこと、すなわちエゴの意志か無知のどちらかによってバランスから投げ出されたものを安定させることなのです。この法則は顕われの世界つまり鉱物、植物、動物、そして人間のすべてにわたって作用します。しかし初めの二つの世界(鉱物、植物)にはエゴの意志がないため、作用と反作用は抵抗を受けずに行なわれます。動物の世界になると個性化した意識が現れはじめます。すなわち自らを他のすべてから分離したものであると見なし、それによって恐怖を生んでいる意識です。動物は人間よりはずっと自然の法則に調和していますが、なおも進化には抵抗するため、ある程度の苦しみに甘んじているわけです。

 

 東洋哲学の研究者は、これまで望ましくない状況というものは、すべて過去世での誤った行為のせいにしがちでした。しかし、カルマとは生涯から生涯へ運ばれるだけでなく、あらゆる瞬間にわたるものなのです。今日の作用は明日の反作用の因となるものであって、その反作用は記憶の経路を通して引き起こされます。人はある夜熟睡するかもしれませんが、朝になると昨日の行動の記憶を持って目を覚まし、前日やめたところから行動を続けるよう強いられるものです。また私たちは、ときとして一瞬の発作的激怒が次の瞬間ひどい頭痛を生むことも知っています。その痛みは、想念の力で混乱状態に投げ入れられた肉体を構成する化学物質が作用して引き起こした反作用というカルマであるのです。

 

 ある動物は、自らを脅かすものを見かけるとやみくもに走り出そうとします。走って来る車に衝突すれば、一生足が不自由になるかもしれません。その不具になった動物の体は現在見られるカルマであり自分の視覚を通して恐怖状態に陥るという無知から引き起こされたものです。植物や鉱物の世界も作用と反作用に支配されていますが、繰り広げられる自然の法則に抵抗をおこさないため、カルマによる苦しみは受けません。

 

 ところが人間は代償の法則または成長の法則に対して強力に抵抗することで、多くの苦渋に耐えているのです。人間は好き嫌いのある生き物であり、目で見て好ましくないものに対して戦いを挑みます。もし、この分裂の状態が心の中に存在しなければ、カルマによる支払いや行為から生じるバランス作用は人間が今は楽しいと言いきれるほどに大変喜ばしいものとなることでしょう。

 

 このカルマについては障害を持った状態でこの世に生まれ、その誕生の瞬間から苦しみを受ける肉体についての問題がよく起きてきました。「確かにそのような状態は、その個人が過去世での行ないを精算しているカルマである」と、あなた方は言われるでしょう。絶対に違います! そのような事例が過去世のカルマによる結果であることは殆どありません。もし徹底的に調査が行なわれるならば、こうした不完全な状態の事例の99%は子供をつくる親が妨害をしたことによるものなのです。

 

 たとえば、ある家族の中には殺人を犯す性癖を持つ子供が生まれるかもしれません。しかし、その家族には以前そんな願望はほんのカケラもなかったはずです。この子供は他人の命を奪う考えで頭がいっぱいであるかもしれません。あなた方ならば多くの人は、そのような者は過去世で殺人者であったのだと言うでしょう。あるいは殺されて復讐の念を抱き、この地に戻って来たのだ。と、ところが十中八九は、その問題児は望まれない子供であったのです。つまり、その子供が腹の中にできたときから、親はどうすればこの状態から逃れられるかを考えはじめていたのです。彼らは、それが人の体であることに気づいていながらも、それを下ろすことを望んでいたのです。これは殺意の想念ではないでしょうか? しかも、このような想念は、いともたやすく胎児の細胞に植えつけられるのです。そして、ついに誕生を迎えるときには、それが子供の顕著な性格と化しているわけです。そのような状況は、その個人が運命づけられたものではなかったかもしれませんが、とにかく一つの体験なのです。そして、もしその個人がこのやっかいな親の譲り物を克服するほどに強くなるならば、そこから多くを得たことになります。他方、その体の内部に宿る魂は苦しむことがありません。苦しむのは混乱したもののみであるのです。

 

 同様のことは誕生時にみられる不具な状態についても言えます。それは、もっぱら外部からの緊張が原因となっていることがあるのです。もし地面を突き抜けて生える木が、その成長の途中でひと塊の横たわっている岩から成長を妨げられれば、不格好なものとなるでしょう。このような状態は、この木が過去世で自然の法則に従わなかった結果などではありません。木は制御できない外圧のためにねじ曲げられたのです。私たち一人一人に前の生涯からやりのこしている仕事がかなりあることは真実ですが、同時に親の因果が子供に報いるということも真実であるのです。このため全人類の進化というものが非常に重要となります。

 

 カルマの問題は確かに相当奥が深いため、これを徹底的に検討するには、かなりの時間を要するでしょう。しかし最後に言わせてもらえれば、人間が自分の内部に起こす抵抗によって自らの運命を作り出すのです。宇宙の法則は完全な均衡を求めるため、バランスから投げ出されるものは中心部へ戻らなければなりません。この反転の動きと戦わず、その発現を許容できる人は、カルマという諸々の結果に苦しむことはないでしょう。カルマとは罰則ではなく、自然の過程に従った再調整のことであり、人から抵抗を受けるもののみがその人を傷つける力を持つということを忘れてはなりません。

 

(1940年代後半に書かれた短文です。)        訳H.K