人間の運命と目的
ジョージ・アダムスキー
聖書の中で私たちは「主は地球の人々に多くの才能を与えた」と告げられています。これは私たちの各人が地球で何らかのタイプの奉仕を行なうことを“神”が割り当てたことを意味するでしょう。これを私たちは人間の「運命と目的」と呼びます。これが、様々な多様性に富んだ考えがあって、同じものが二つとしてない理由であり、それが人生を価値のあるものにさせているのです。
想念の宇宙的な形態と想念の個人的な形態の間には考えに違いがあります。宇宙的な形態は宇宙的な才能を表現するでしょう。そして、その才能と共に人はこの地に置かれました。個人的な想念は自分自身の自己(エゴ)を満足させるでしょうが、それは彼らの存在の目的に逆らいます。
宇宙的な想念とは何でしょうか? 宇宙的な考えをする人は、“自己”をなくして、宇宙または全人類の見地から考えます。
一例として研究室で苦痛を除去する解決法を捜し出す研究をしながら何十時間も不眠で過ごす医学の専門家を見てみましょう。彼は自分自身のための報いの想念を少しも持ちません。彼はその答えを発見して、それを世の中に与えます。そうすることで彼の運命を成就するために彼が生まれたときから持っていたその才能を用いているのです。
個人的な想念は宇宙の目的からの分離を引き起こします。その個人的な想念はそれ自体を満足させることによって誤用(乱用)するからです。これはあらゆる才能の“贈与者”を信じることの欠如を現しています。
一例として、三つの才能を持って祝福されている若い女性を私は知っています。だれでも人間のハートに喜びをもたらすことでしょう。彼女は良い声をして、一つの楽器を正確にまねることができます。そしてダンスを表現するための自然な才能を持っています。それにもかかわらず、彼女はこれらの才能のいかなるものをも信じていませんでした。彼女の個人的な性質はこれらの才能を成し遂げることができないと感じたからです。彼女は彼女の世話をする誰かを持とうとして、結婚という個人的な安全ためにこの運命を無視しました。
この個人的な行為からどんな結果になるであろうかを今見てみましょう。まず、第一に決して幸福になれないでしょう。それは彼女の才能を表現しようというそれら自身のあこがれは連続して彼女を悩ますからです。彼女が捜し求めた安全はより小さなものでしょう。別の面から言えば奉仕するために運命づけられた彼女は、自分の才能を発達させたのならば、彼女の報いは限界のないものとなり、安全を確実なものにしていたでしょう。彼女は疲れた人類にリラクゼーションをもたらすことで非個人的な奉仕をしていたかもしれないのです。
さて別の実例です。この人はたくさんの知識を捜し求めて、人々に対して生命の神秘を説明するための創造主より授かった才能、能力を真実であることを立証しました。けれども、才能の“授与者”を信頼していないため、身の安全の理由のために今日、平凡な仕事に就いています。
先に述べたように、彼らは幸福を見出す事は出来ません。彼らの才能は彼らに運命づけられた目的と一致する表現に対して、待ち望まれていたはずだからです。
1926年に私は金持ちになる機会を持ちながら、中西部で仕事をしていました。私が思い出すことができる限りの昔に私が持っていたと私か感じた宇宙的な表現者の経路の中へと私が導かれるある日まで…。
この機会がやってきたその日まで私は公衆の前で表現する信念も勇気も持っていませんでした。その時でさえも私は、それを二週間無視したのです。これは、それを成し遂げるための私の能力に対する自信の欠如によって引き起こされました。
また私の仕事には財政的な安全(保障)がありましたが、その新しい分野には確実性が少しもありませんでした。私自身の過ちではなかったのですが、何かがその仕事に起きました。そしてその身分を失いました。そして私は新しい分野の中に無理やり(義務づけられて)行かされました。私は少しも後悔していません。そのことは私に与えられた才能を表現し、そして私が生まれたその目的を成し遂げつつあるからです。
一方、私は富という形での安全(保障)を持っていませんが、永続的な安全(保障)を確かに持っています。それは人間の安全(保障)の概念から私が持つことができるものよりもはるかに偉大なものです。
私は何も欲しませんでした。毎日がその必要なものをもたらしてくれます。そして私が自分の能力のベストを尽くしで“創造主”の目的に奉仕するかぎり、これは続くでしょう。
以上が自己という見地から考えることと私たちの宇宙的な潜在能力(複数)を信じるという見地から考えることの違いです。
(訳H.K)