静寂の響きを聞く

ジョージ・アダムスキー

 

 人間が言葉として理解する音声という振動は最も粗雑な振動の一つです。

 

 音響や視覚は人間にはとても大切な認識機能です。以前、視覚を通して得られる意識の世界について論じ合ったことがありましたが、私たちは自分のまわりにある物体を見ることによって、不可視の(目に見えない)世界をも包含する意識的な知覚力の洗練された世界があることを突きとめました。目に見えないものを“真理”あるいは“因”と名づけ、“因”の中へ入るとあらゆる感覚機能の道が一つになっているのが分かります。そこでは、意識的知覚というもの、あるいは感覚を通さないで認識できるほど容易に理解できるものとなっています。

 

 探究者は鍛錬を行うなかで、よく静寂に入るよう告げられ、この世で充実した生活を送るように必要な指導を受けますが、この静寂が大きく誤解されています。なぜなら、それによって自動的に完全な不動というイメージが伝わることになるからです。こうしたイメージは音響というものの観念からやって来ます。音響は聴覚という肉体の器官に刻みつけられるものです。しかし、実際は“静寂”とは見た目に明らかな活動よりもずっと大きな活動状態であるのです。意識的想念の世界にある知覚力は視覚というはかない器官を通して得られる知覚力よりも卓越したものであるからです。

 

 静寂や目に見えないものは“意識”を通してのみ知覚され、実在するものです。この宇宙には完全な不活動は存在しません。自然の中には空白というものが見られません。つまり無というようなものは存在しないのです。静寂とは音響が存在しないのではなく、音響を洗練することなのです。それは増大した活動状態です。したがって完全な不動の念を抱いて静寂に入ったり、心を空しくすると呼ぶような行を行おうとする個人は大いに失望するでしょうし、おそらく自分にはできないと思い込んでしまうことでしょう。

 

 ときとして人が“静寂”に入って最初に感じる印象は、全くの不活動のようなものであるかもしれません。というは、外界の感覚ではキャッチできないほどの想念が急速に通過してしまうそうした高度な意識状態に触れることがありうるからです。心が徐々にその大いなる活動に適合するように向上してゆけば、人は活動を自覚するようになっていきます。外界の感覚を静めることは、その感覚を昏睡状態におくための過程などではなく、感覚の注意を低い振動状態から高い振動状態へ変換するために必要な能力なのです。

 

 色彩は完全な不活動の状態にあると言ってよいかもしれません。なぜなら、その活動を見ることはできないからです。しかし、実際はいかなるスピード・メーターの限界域よりも何十億倍もの速さで振動しています。探究者が静寂に入ってゆくと、自らの感覚で知覚できる力よりもさらに大いなる力に自分自身を適合させてゆくことになり、そのため静寂は本人の目に不動のものとして映ります。人が静寂の状態に入ると、宇宙の活動と一つになり、自らの意識をさらに広大な知覚の世界へと広げてゆくことになります。そのときこそ絶えず活動する創造性の源で生きることになります。この創造性が堅実に様々な物にそれぞれ現象化の準備をさせているわけです。

 

 “静寂”の中から生まれないものは存在しません。卵の中にみられるヒナの成長は、私たちが耳で聞くことのできる音響を発するでしょうか? いいえ、殼の中のヒナの成長は完全な静寂のなかで起きます。ヒナが殼を破って出てくるまでは、殼の外で動く様子が見られることも卵のなかで物音がすることもありません。バラの花が成長するときも物音はしません。バラは静寂のなかで芽を出し、静寂のなかで成長し、物音を立てずに花びらを広げます。そして時期が来れば、その花びらを黙ったまま地面に落とします。露はできると地表に落ちますが、それは人間の耳には聞こえません。ガスは物音をたてず結合して地上の生き物を存続させる雨になります。万物のなかの最高の創造物でさえ、まったくの静寂と思えるもののなかで生まれます。そして宇宙のあらゆる営みが行われるのは、こうした経路によるものです。“静寂”とは目に見えるものや見えないもの、そのすべてを生み出すものなのです。

 

 人間は宇宙の強烈な活動に気づいていないため、ほとんど“静寂”というものを理解していません。人間の感覚では、その活動がキャッチできないのです。人間はまた、この宇宙にある惑星や太陽系の活動を想像することもできません。私たちの住んでいる地球はすさまじいスピードで運行していますが、地球自体に目を向ければ、みかけはまったく動きのないものの一つです。

 

 地球の内部で起きていることは肉眼や物理的な音響に頼っていては知ることができません。しかし、毎瞬、無数の化合が行われ絶えず活動が起きています。細胞は絶え間ない活動で生まれ、鉱物はそこで物質の原子から細胞を完全に構成するものに変えられます。そこに私たちが知っているような音響は存在しません。すべての過程が静寂とみえるもののなかで進行しています。おそらく“静寂”に入ることを実践したことのあるあなたは、その広大さが分かっていないのです。それはすべてを包含します。“静寂”こそ、人それぞれが活動し続ける創造性に注意を払いながら、自らの進化の糧としなければならないものであるのです。人間が自己の感覚を静めて静寂の振動を完全に意識するようになれば、自分の意識の目で人間の知識の支配などは受けない“創造主”の領域にある実際の法則の働きを目にしているのが分かるようになります。

 

 一つ一つの想念が孕(はら)まれるのは音なき音のなかです。私たちは心を通過してゆく想念の動きを聞くことはありません。それは沈黙の活動です。肉体のあらゆる運動は活動する沈黙に依存しています。創造性は私たちが気づいていようといまいと進行してゆきます。そして創造性の豊かさを意識したり、その美に秘められた喜びを見出すことができます。

 

 人の注意がこの世界の騒音に奪われているあいだは創造性のなかにある沈黙の響きを聞くことはできません。人間が知っているような外界の音響と静寂そのものとはうまくマッチしないからです。誰でも一度や二度は、ソフトに流れる音楽番組を、誰かが大声で話しかけている最中に聞こうとした経験があるはずです。話し手の言葉を完全に理解し、しかもその音楽を聞くのは大変なことです。そのどちらにしろ、納得のいくようにするためには片方を排除して一つに集中する必要があります。人は同時に二か所に留まることはできませんが、意志の力で一方からもう一方へ移動できるようにするべきです。

 

 人が真に“静寂”の要素を知れば、すべてを一つのものにしている“宇宙の因”の意識であることを見出すことでしょう。“静寂”は、触覚、味覚、視覚、音響をも包含し、これらすべてをフィーリングという強大な力で結びつけ、際限のない知覚力を生み出します。その中には知恵、喜び、そして愛という絶対の“真理”があります。それは創造物を優しい手でそっと触れてねぎらう“全能者の生命”であるのです。

(訳 H.K)