意識の声 No.7 より
1991年 2月号
先般、私は第四次のデザートセンター調査にまいりました。アダムスキーが撮影した『馬の鞍』状の地形を調査するためです。一月二四日より二九日までの六日間、七人連れで行ったのですが、この詳細については四月発行予定のユーコン一一三号に掲載しますから、ここでは省略します。
この旅行でも痛感したのですが、個人または少人数で海外へ出かけて、文字通りの西も東もわからぬ場合、出くわす異国人のなかで親切な人と不親切な人とでは天地の差があります。どうにかすると神と悪魔ほどの大差を示すこともあるのです。
これでわかるのです。人間の世界を調和した美しい雰囲気のもとに住み良くするのは『親切な人達によるのである』と。百万言の説教を唱えて自己を権威づける人達によるのではありません。しかも無条件の親切さを示す無名の人達ほど不可欠な高貴な存在であることを今回の旅行で痛感しましたですね。これとは逆に、いわれもなく他人を非難攻撃して自己満足を感じる人々のむなしさ、無価値、有害性、といったものを感じますが、しかしこれを嫌悪して排除しようとすると分裂が生じ、闘争となります。ここが難しいところです。イエスやアダムスキーのような無条件の親切さが示せるほどに高次元な人間でないからこそ私達はこうした聖賢のビジョンのもとに悩むのですが、難解な抽象的論理を抜きにして、文句なしに無条件の親切さを示すことは、すなわち他人の困っている気持ちを理解してかかることであり、そして他人を理解できる人ほど他人から見れば頼りになる存在であると言えるでしょう。
このように書いてゆけば、この文章自体も抽象的な説教になりますから、これぐらいで置きますが、とにかく、文句なしに他人に対して親切な人間になりたいものだということを旅行のたびに痛感します。そして、そのことを結局は宇宙哲学が教えていると思うのです。
私達は歴史に残るような偉大な聖者になろうとしているのではなく、誰もが楽しく安心して住める調和した社会を作るために、ささやかな努力をしてゆこうとしているのです。それにはまず自己の周囲から楽しい雰囲気を作り出し、生きていることの素晴らしさを味わえるような人間になろうというわけです。これについてはユーコン一一二号の記事『ハンス・ピーターセンが語る秘話』(1)の中で、アダムスキーが大変な話好きな人で、しかもジョークのかたまりだったとピーターセン氏が言っています。実は私が十六年前、最初にアメリカへ行って当時のビスタのグループと交流を始めたときも、「アダムスキーはとても冗談をよく言う人で、特にポルノがかった話をよくしていた」と彼らから聞かされたことがあります。このことを彼らは「ダーティーな話」と表現し、アメリカ発音で「ドリー、ドリー」と聞こえるので、何のことか聞き返してみると、ヤワラカイ話ということがわかりました。これにどの程度の信憑性があるかはわかりませんが、いずれにしてもアダムスキーという人は聖人君子というイメージとはほど遠く、非常に気さくな老人だったようです。このほうがいいですね。難しい顔をした説教師であれば、あれほどに人が寄りつかなかったでしょう。酒類も多少はたしなんだようで、タバコはヘビースモーカーであったとピーターセン氏が言っていますが、これは故アリス・ウェルズ女史も証言していました。
これでわかるのは、アダムスキー氏が持つような高度な宇宙的なカルマといえども個人によるものなのでしょう。私自身もヘビースモーカーでしたが、十年前に病気で入院してから、きっぱりと禁煙して現在に至っています。しかし私を大酒のみであるかのごとく思っている人が多いようですが、これは当たっていません。私は自宅では全く飲みませんし、だいいち、家の中に酒瓶がおいてあることに嫌悪感を起こすものですから、自宅に酒類は一切ないのです。飲むのは外でのつきあいのときだけ。それも数年前には宴席でジュースだけにしていましたが、私が飲まないと皆さんが遠慮して飲まず、座がシラケますので、その後はまた飲むようになりましたね。他人と愉快につきあうことの好きな私は、酔えば談論風発、話好きな性格を発揮し、ときには「ドリーな」話もしてしまいましたが、そのために私に関してある種の風評が流れるものですから今後は一切ドリーな話はやめようと考えています。宴席でもあまり飲まないようにし、しゃべることも控えて、物静かな態度を保ち、同席の人々を決して悪く思わず、生きて座っていることを楽しく思い、帰宅してからは、「今日は無事に生きられてよかった」と内部の宇宙の意識に感謝して眠りにつく、という生活を過ごしたいと思っています。
人間の生活で最大の障壁となるのは個人が起こす恐怖心です。しかもそれは他人から嫌われているのではないかという恐怖心です。これが裏目に出ると、逆に他人を非難攻撃するようになります。この原因としては、自分が他人を嫌うから、そのカルマとして他人から嫌われることになります。したがって最大の安楽な生き方は他人を悪く思わないことにあります。難しいことですが、これ以外に自分の大安心の境地を確立する方法はないでしょう。