意識の声 No.12 より
1991年 7月号
人間誰しも より以上に充実した豊かな人生を過ごしたいという欲求はありますが、現実は必ずしも理想通りに行かず、さまざまの人間模様を織りなしながら泣き笑いの生活を送っています。テレビのドラマを見れば一目瞭然。怒鳴ったりわめいたり、泣いたり笑ったり、なんのことはない。感情の波に流されながら生きているだけのことで、やがて老衰してこの世を去って行きます。こんな人生を過ごしたくない、という観点からもっと宇宙的な真の人間としての主体性を確立して、生き甲斐のある生涯を過ごしたいというのが大半のGAP会員の方々の態度であろうと思います。
一体、どうすればよいか。解答はただ一つ。「他人を助けるような生き方をすること」これに尽きます。そうすれば自分が他人から助けられるのです。これはイエスが説いた千古不滅の法則ですが、欲望のかたまりと化した現代人にはメルヒェン(童話)以外の何物でもないでしょう。私はときどきルカ伝の第六章を繰り返し読みますが、(英文版の新約で読むのですが)、特に二七節のLove your enemies(あなたの敵を愛しなさい)から三一節のDo for others just what you want them to do for you (他人にしてもらいたいと思うことを他人にもしてあげなさい)という箇所に至るまで重視しており、これを電車の中などで反復熟読しています。
しかし単なる読書だけがいかにむなしいかは誰も知るとおりです。実行しなければ自分の波動が高揚しません。親切さの想念波動を怒濤のごとく他人に浴びせかけながら、他人を背負って荒波逆巻く川の向こう岸へ渡してあげようというほどの実践力の前には、いかなる教祖の百万言の説教も顔色がありません。だいいち、そのような実践力を持つ人をスペースピープルが無視するはずはなく、河岸へ渡そうと苦闘する本人を援助するでしょう。これを「天は自ら助くる者を助く」と言います。
アリス・ポマロイ女史から聞いた話によりますと、アダムスキーが口癖のように言っていた言葉の一つとして「他人を助けるような生き方をすべきだ」というのがあります。もはやこれはイエスと異なるものではありません。
私はこの頃一つの認識に到達したような気がします。それは「人間はマインドと意識の複合体である」というア氏の理論からして、「この現象はマインド界と意識界との複合世界であり、それ以外の何物でもない」という自覚です。意識界というのはテレパシー界の別名でもあります。万物からは発せられる波動が互いに交信しあっている世界が意識界です。しかし一般地球人は四つの感覚器官で形成されるマインド(心)だけで生きていますから、いわば「マインド界」だけを知覚しながら生きているのですが、実はその底に「意識界」が存在しているのに、それに気づかずに生きていると言えます。これをたとえれば、川の表面はさざ波が立ち騒いでいますけれども、水面下ではどっしりと巨大な量の水が存在して表面を支えています。水面の騒ぎは水面下の多量の水の支えがあってこそ可能になります。
人間も、水面の騒ぎに似た四官を静め、マインド界を脱出して、水面下の意識界へ潜り込む必要があります。つまりテレパシーで交流しあっている意識界の住人になるわけです。もっと言い換えれば、肉体のマインド界から不可視の波動界である意識界へ移住するわけです。
以上のことは理論の段階ですが、これを実行して実際にそのようなフィーリングを起こす段になると容易ではありません。しかし全く実践不可能なことでもありません。そのようなフィーリングを絶えず起こすように不断の努力を続けて行くならば、自動車の運転練習と同じように、次第にフィーリングが高揚してテレパシックになってくることは間違いありません。これは私の体験から言えることです。
「無数の想念波動が交信しあっている、そして原子群が語り合っている不可視の意識界」への移住! これがテレパシー開発の究極の目標になるものでしょう。このように見ますと、地球人全体が如何に四官だけで現象界にとらわれて泣き笑いの人生を過ごしているかが分かります。地球というのはまるで人間が商品レイベルだけを見て価値観や基準を設定しているような世界です。内部にどのような素晴らしい品物が包まれているかが全く分からずに品定めしているようなものだと言えるでしょう。