意識の声 No.13 より

1991年 8月号

 

全てのものを『金星』とみなす

 

 さて、私はときどき大いなる宇宙的印象を得ることがありますが、以前にもお伝えしたと思いますけれども、今春、都内の水道橋から白山通りを歩いておりましたとき、突然、内部からの宇宙的印象を感じて「これだ!」と思ったのでした。どういうことかと言いますと、大勢の通行人を見ているときに、「この世界の誰も自分の実体を知らないのだな」とマインドで考えておりましたら、「自分の内部に絶対的な物が存在することを認識しなさい」という声なき声が響いてくるのです。私はハッとして天来の声を聴いたかのように立ち止まり、近くにスペースブラザーがいて、そこからテレパシーで送られたのではないかと思い、あたりを見回したのですが、通行人は沢山いますから、とっさに見当がつかず、結局、『声』の源泉は分からずじまいでした。

 

 それ以来、私は人間の内部に存在する『絶対者』というものを心底から意識するようになり、それによって宗教に特有な偶像や教祖の崇拝等の根本的な誤りを強く自覚するようになったのです。このことはここ数ヶ月来、東京月例会でお話ししますから、ご存じの方もいらっしゃると思います。

 

 もちろん、こんなことは昔からアタマでは分かっていたつもりでも、容易に自分の内部からの生きた自覚が得られなかったのですが、これによって、単なる知識と本当の自覚との大差をあらためて悟りましたね。

 

 ところが、それから約二ヶ月後、所要あって地元の銀行へ行き、カウンターへ書類を出して、ソファーに座りながら自分の名前が呼ばれるのを待っておりましたとき、またも突然大いなる印象が湧き起こったのでした。それは「世界に二人といないような人間になりなさい」という声なき声です。私はそのとき床を見つめて一種の無心の状態でいたのですが、ハッとして顔を上げて、あたりを見回すのにブラザーらしい人は見当たりません。しかしその印象は強烈でしたから、今度はその『声』に茫然となったような次第でした。「世界に二人といないような人間になれ」とは、世界中に名を知られるような人間になれという意味ではありません。これは「世界の五〇億の人間が全く体験しないような想念の持主になれ」ということを意味しています。それはすなわち、あらゆる人間が宇宙の意識に生かされた大宇宙の子であることを常に意識するような人間になれという意味にほかなりません。このことは皆さん方にもお分かりのはずです。

 

 しかし、こんな想念も昔からアダムスキー哲学をやっている私にとっては当然すぎるほど分かっているので、いつもそのようなフィーリングを起こすように努力していたつもりでしたが、反省してみますと、やはりアタマの理解の段階にとどまっていたようです。万物と万人が宇宙の意識で生かされているから、万物を等しく尊敬するべきだという思想は、本当は私の内部に生かされていなかったと言えるでしょう。

 

 ところが、ごく最近、私が事務室で執務中に、またも突然、『声』が湧き起こったのです。それは「この地球世界を金星そのものだとみなしなさい」という声でした。そこで「これだ!」と心中で叫びましたね。やっと真実の解答が得られたという感じです。

 

 つまり、万物や万人の外観にとらわれながら、その内部に実在する『宇宙の意識』を洞察しようとしても、この二元性には無理があったのです。そこで、いっそのこと、この世界をまるごと金星のように極端に進化した世界そのものであるとみなし、万人が金星人のように超高度に進化する途中の段階であるにしても、いずれは金星人と同等のレベルに発達するのですから(そのことは分かっています)すでに金星人そのものであるという概念で見るのです。そうしたら、私の心中にくすぶっていた葛藤のすべてが吹き飛んでしまいましたね。これは、いわば万物と万人の完成しきったイメージを描くことになるからです。

 

 日常の世界を見ても、とかくドロドロした醜悪な出来事が新聞を賑わしていますし、街を歩いても、イエスの言う魂の抜けた『死人』のような人、メクラそのもののような人、金の餓鬼のような人、その他いろいろな人が跳梁跋扈しています。正義感に燃える人ならば歯ぎしりして義憤を起こすでしょう。私もかつてはそのタイプの一人でした。しかし、今は違います。どのような人間が去来しようとも私は外観や性質を見ないようにし、あらゆる人を『現在の金星人』とみなすようにするのです。

 

 以上を一種の観法であるという人があるかもしれません。しかし呼称は何であれ、私がいまだかつて世界の誰も起こしたことのない想念によって万物と万人を見るならば、それは『世界で二人といない人間』だと言えるでしょう。しかもこれは単なるドンキホーテ的な妄想ではなくて、私のイメージによる波動が周囲の人々になんらかの良き影響を与えることになれば、それは功徳ということになります。

 

 しかし何よりも、このような見方で万物と万人を見ないことには、自分自身が救われないということが分かってきます。他人を助けるような生き方というのがアダムスキーの口癖の一つだったそうですが、直接具体的に他人を助ける力を持たぬ私達は、せめて万人を金星人とみなしてあげることによって、そのような想念波動を浴びせるならば、それは必ず何らかの良き影響を相手に与えることになります。これも他人を助ける方法の一端であると言えるでしょう。

 

 アダムスキーが口癖のように言っていた言葉は他にもあります。「人生は気楽に過ごすべきだ」というのがそれです。しかしこの言葉の原語はrelaxとなっていましたから、これは遊び半分で過ごすと言う意味ではなく、緊張しないで心を弛緩させて過ごすという意味であって、この真意を考える必要があります。アダムスキーは遊び半分どころか徹底的に働き通したのであって、そのために心臓を痛めたのです。病院に担ぎ込まれて、瀕死の状態にあったとき、病院の外にスペースピープルの車が停車しており、病院の窓からそれを見たロドファー夫人に対して、車からライトを点滅させて「もう彼は他界する」という意味の信号を送ったとロドファー夫人が言っています。

 

 私達は、アダムスキー哲学をやるからには真剣に研究実践を貫く必要があります。もちろん誰しも職業がありますし、子供の集まりではありませんから、ときには宴会を開いて愉快に談笑することもありますが、その場合でも私は宴席に連なる人々を『金星人』と見なし続けることにします。「この人は今酒に酔って低次な話をしているけれども、無数の転生を経て、いつかは金星人と同等のレベルに昇華するのだ」という想念を送って祝福したいですね。酒席において、どうしてもそのような想念が起こらねば、帰宅してから瞑想を行ないます。マインドが不調で瞑想が出来なければ、何かの本を読むか、文字が踊って読めなければ、CDで美しい曲を聴きます。これに関心が起こらねば、あとは寝るだけです。しかしベッドに横になっても反復思念を続けます。「私は完全、無限に完全、絶対完全」とか、その他の言葉を唱え続けるのです。この就寝時の反復思念は多年に渡って私の習慣になっています。