意識の声 No.31 より

1993年 2月号

 

 カリフォルニア州は、一月に約二週間に渡ってサンフランシスコからサンディエゴに至る地域が大雨と洪水に見舞われるという史上まれな悪天候でしたが、私たちが行ったときは連日晴天に恵まれて大変に幸運でした。気温も日中は二〇度前後ですから東京の五月上旬と同じです。二三日午後と二四日はロス市内を観光、有益な二日間でした。

 

 二五日、陽光きらめく南カリフォルニアをレンタカーの大型ステーションワゴンで一路南下して疾走。各自の役割は、篠=マネージャー、田中と堀江=運転、岡部=同行者達のための通訳、加藤=私の撮影助手、と分担が決めてあったのですが、これを全員が立派に遂行しました。協力の重要さを痛感した次第です。私個人のデザートセンター行きは今回で一五回目になり、そのうち、正確なコンタクト地点の調査は六回目です。

 

 というのは、一九七五年にデザートセンターの間違った地点へアメリカのあるグループが案内してくれて以来、そこへ何度も行っていたのですが、そのうちに、ここはアダムスキーがコンタクトした場所ではないということに気づいて、それから正確な地点を探索し始めた第一回目が八八年の一一月です。このときは、かなりよい線に近づいたのですが、どうしても発見できませんでした。そのかわりに驚くべきものを見ました。低い丘の岩盤に約三メートルの円形物体の一部を現しているように見えましたね。もうお分かりでしょう私たちがそこへ行くことを予知したスペース・ピープルが、前夜円盤で降下して岩盤にタッチダウンし、斜めに傾いた状態で自転しながらフランジの縁で岩盤を削ったのです。このことは私がある理由によって断言できます。しかし彼らは何らかの具体的な方法で真実のコンタクト地点まで導いてはくれませんでした。たとえば円盤が出現して誘導すればよいのですが――。「あくまでも自分自身の力で発見しなさい」というのが異星人達の態度であるようです。

 

 翌年の第二次調査でもまたそこへ行ったところ、まだ曲線の跡がかすかに残っていたもののそこが本当のコンタクト地点でないことは明確でしたから、もっと西側へ移動しようということになり(これを誰が言い出したのか定かではありませんが、たぶんその人は上空からの波動に感応したのだと思います)、一山超えて西の広い地域へ移動して探索を始めたのです。そこに小さな小川の跡があり、一同は川の向こう岸を歩いていましたけれども、私はなぜか川の手前をただ一人で、一九五二年一一月二〇日のコンタクト時に撮影された写真(これは当時の同行者の一人であるベイリー婦人が撮影したもので、ウィリアムソンの著書『Other Tongues - Other Flesh』に掲載されている)を片手にかざして前方の風景と見比べながらゆっくりと歩いているうちに、全く同じ場所に出くわして発見したのです。これもたぶん私が上空からの波動を感受したのかも知れません。昨年の第五次調査では、砂漠地帯の上空に突如、巨大な母船が出現して一同を驚嘆させました。この件はユーコン誌一一七号に詳細が出ています。

 

 私の海外旅行も通算二四回になりました。旅慣れているとは言え、七〇歳近い年齢だと体力的にいささか衰えますが、(ただし精神的には永遠の二四歳です)、到着した日の夕方六時から夕食に集合する七時までの一時間、私は入浴、洗濯、服のアイロンかけ等を済ませて定刻にロビーへ行きました。こうして早業は、実は昔の旧軍隊で身につけた習性です。私は一見緩慢に見えるかも知れませんが、そうではありません。身のまわりの処理を超特急で行う習慣や,TPO(時と場所と機会)に応じて服装を変えるといったマナーなども(これは重要なマナーです)、実は軍隊生活で身につけたものです。第二次大戦中の暴力と狂気に満ちた地獄のような日本軍隊にも、煎じ詰めれば「良い」点もありましたね。その「良い」点だけを見て、それを生かすようにすれば、むしろプラスになるのではないかと思っています。

 

 人間もこれと同じです。どんなに悪党のように見える人でも、つきつめれば何かしら『善なるもの』がひそんでいますから、それだけ見つめるようにすればよいでしょう。そうすれば自分と相手の間に善なる波動のみが交流し、やがて相手も悪から抜け出せるようになります。これが本当の救いというものです。皆様、お元気でお過ごし下さい。