意識の声 No.44 より
1994年 3月号
<デザートセンターへ>
デザートセンターの砂漠地帯は一九五二年一一月二〇日、アダムスキーが金星人とコンタクトした場所として有名でして、私はここへ数十度来ていますから、我が家の庭みたいに熟知していますけれども、夜間にここで過ごしたのは初めてです。その結果、この砂漠地帯は非常に不思議な場所であることが判明しました。夜、私が車の中で瞑想していたとき、突然、大きな花火が見えてきたのです。黄色や赤の美しい花火が左から右上に打ち上げられる光景が一瞬鮮明に見えました。また頭の中で人の声のようなものが響いたり、その他、奇妙な現象がいろいろとありましたね。大地からの波動のせいなのか、それとも上空からのテレパシーなのかは分かりませんが、むかしアダムスキーがここを選んだ理由が首肯できるような気がします。いずれにしても、このコンタクト地点で徹夜して朝方まで観測した者は世界でも私たちぐらいのものでしょう。夜空に輝く星々の美しさは筆舌に尽くしがたく、まさに創造主の御手による大宇宙の壮大なドラマが展開したかのようでした。
田中・加藤の両君は実によく活躍してくれましたね。私の数個の大荷物を手分けして担いでくれて、後ろから見れば、人間よりも荷物が歩いているような光景でしたが、両君は嬉々として健闘してくれました。げに献身的な無私の奉仕ほど美しいものはないことを痛感した次第です。
<自由>
人間は思想信条の自由が憲法で保証されているから、何を信じようと信じまいと自由だとよく言われます。また、自由の裏には義務と責任があるとも言われます。しかし、義務や責任というのは本来(地球人にとっては)不自由なものですから、結局自由とは不自由の裏返しにすぎないということになります。ちょうど微分の裏に積分がくっついているようなものです。本当に自由とはいったい何なのか。この問題はフランシス・ベーコン、シェリング、スピノザ、ヘーゲルその他の哲人によって議論し尽くされましたが、これという正解はないようです。
そこでアダムスキーの書物に目を転じますと、スペース・ピープルにさえも個々にある程度の責任や義務が課されているようですし、地球人に見られるようなワガママなどは許されていないことが分かります。それどころか、大母船のマスターの指令のもとにグループが一体となって整然と活動している様子が見受けられます。結局、自由とか不自由というのは感覚的なものでありませんか。地球人は自由に関する解釈をひどく誤っているような気がしてなりません。田中・加藤の両君がクボタのために荷物を担いで楽にしてやろうと喜んで活動するときに本当の自由があるのではないかと思うのです。なぜならこれは両君の自由意志に基づくものであって強制ではないからです。つまり他からの強制によって自己の信条が歪められれば、それは不自由ですが、一方、自由意志でもって他人を喜ばせて自分も喜ぶというのが真の意味での自由だと私は思うのです。そのような自由を創造主が人間に与えているのだと思われます。大自然は創造主の現れであると唱えた一七世紀のスピノザは無神論者にされて気の毒な結果に終わりました。まあ、あまり難しく考えないでとにかく「他人を喜ばせることをもって無上の喜びとする」という生き方に徹したいものですね。そして求道精神の権化となりたいものです。