意識の声 No.62 より
1995年 9月号
ホンコンのテレビ局が日本GAPを取材
去る八月九日、ホンコンのテレビ局が突然来日し、私を取材してUFO番組を製作するという椿事が発生しましたのでお伝えしましょう。
この日私は昼頃に用事で外出する予定でしたが、なぜか「今日は家にいるほうがよい」という印象があって仕事部屋で軽い仕事をしておりました。すると一時頃に電話が入って「ホンコンのテレビ局の者だが、日本GAPを取材して番組を作りたいので協力してくれないか」というのです。非常に達者な日本語で話すその人はラソンさんという男性で、言葉がきわめて丁寧でして、日本のテレビ局にありがちな○○○がないものですから、この人達はたんなる興味本位ではなしに真剣な態度で素晴らしい番組を制作しようとしているのだろうと直感し、会う約束をして、午後二時半に東京駅の八重洲中央ロで会ったのです。そして駅前の喫茶店へ連れて行かれましたところ、すでに四名の取材班が待機していました。全部で五名のチームです。
日本GAPのことをどのようにして知りましたかと尋ねましたら、この取材班は全く予備知識なしに来日して、まず都内の書店に入り、UFO関係の書物を探して、その著者に連絡するという方法を用いて、新アダムスキー全集を見てから私に電話をしたということでした。なかなか頭の良い人達です。そこで私は持参した資料等を見せながら日本GAPやアダムスキー問題について詳細に話しましたところ、これはぜひともビデオカメラで撮影して取材したいので、今夜、もう一度来てくれないかということでしたから快諾していったん別れて、夕方六時半に新宿駅で再会して彼らの車に同乗し、板橋区のマンションの一室で撮影を開始しました。
そのときに判明したのですが、一行の中に上級シナリオライターと名刺に刷り込んだ粛美儀さんという美しく若い女性がいて、この人が全体の指揮をとっているようでした。そして一人だけ英語が達者にできる背の高い男性が質問者となって、私に次々と質問を出し、それに対して私が答えるという形式で、私が持参したアダムスキー撮影の円盤や母船の写真等も複写して、それを会話の間に挟むという番組です。最初は質問者が英語で話しかけてきましたので、私も英語で答えていたのですが、その頃私は九月のワシントン市のアダムスキー大会に備えて発音をアメリカ式で統一していましたので、これがイギリス英語の行なわれるホンコンで放映されたのではまずいと思って、途中から日本語に切り替えることにしました。この通訳はラソン氏が行ないました。
こうして約一時間半ほど質疑応答が続いて終了しましたが、特筆すべき事柄が二、三ありましたので、お伝えしましょう。まず取材中の質問が非常に真面目な深みのある質問ばかりで、日本のUFO番組とはケタはずれに真剣な内容であったという点です。私も誠意をこめて一生懸命に話し続けました。まるで月例セミナーに出たかのような雰囲気です。日本のテレビもこんな具合に番組を制作すればよいのにと彼我の差を痛感しましたね。
次に驚いたのは彼らのビデオカメラです。なんと小さなアマチュア用のパナソニック8ミリカメラなのです。ライトは小さいのが二個だけ。アダムスキーの写真類の複写の際は、室内の本棚のフチに写真を立てかけて、それを手持ちで撮っています。きわめておおざっぱで簡単そのものですが、実はこれで良いのです。私も写真のプロですから知っていますが、このような撮影機材で立派なテレビ番組が出来るのです。日本のある高名な写真家は(この場合は普通のスティル写真ですが)俗にバカチョンと呼ばれるコンパクトカメラを仕事用に使用しています。要するに道具よりも技術がものを言うのです。
ホンコンから来たこの人達からずいぶん学ばされた事がありました。まず言葉の問題。このチームはみな中国系ですからホンコン語で話しています。北京官話でないことは私にもわかりますが、全く理解できません。しかしラソン氏が達者な日本語で通訳をするので大助かりでした。聞けば彼は東京に一〇年住んだことがあり、学校にも三年ほど通ったとのことです。また、背の高い人は英語が達者なので、この人とは英語で不自由なく意思疎通をはかることが出来ました。かんじんの美人チーフは日本語はおろか英語も全くダメ。一流大学を出ているのでしょうが語学は苦手のようです。他の人達も同様でした。ホンコンは多年英国の直轄植民地だったのですから、ホンコン人は英語を母国語のように話すのかと思っていましたが、そうでもなさそうです。この点は、教育を受けても英語がほとんど話せない人の多い日本も同じです。言葉の重要さを痛感した一日でした。
撮影終了後、車で送られて新宿駅で別れましたが、意外にも彼らは私に非常な尊敬感と親近感を示して笑顔で一人ずつ握手を求めてきましたので、私も微笑を浮かべながら誠意込めて握り返し、きわめて友好的な雰囲気に包まれながら訣別したのでした。これはちょっとした感動的な場面だったと思います。この理由としては、戦時中にホンコンを占領した日本軍が暴虐の限りをつくし、戦後は大挙してホンコンを訪れる日本人が今度は金の力で威張り散らす風潮のあるなかで、私がささやかな謙虚な態度で彼らの取材に応じたからであろうと思っています。まさに「朋あり遠方より来たる。また楽しからずや」(論語)の一日でした。これもアダムスキー哲学の実践が土台となっています。有難いことです。ただし残念ながらこの番組は日本では見られません。東南アジア一帯と中国本土の一部が放送エリアになっているということでした。しかし番組編集後にビデオテープを一本送るからと粛さんが言っていましたので、これが来るのを楽しみにしています。それより何よりもアダムスキーの宇宙的な体験が東南アジア一帯に伝わることに非常な期待感があります。だからこそ最初に私が外出の予定を急に変えて、自宅に「何かを待って」待機することになったのでしょう。これがテレパシックな予感だったのか、それとも上空のSPの方々からの送信だったのかは不明ですけれども、偶然ではなかったと思います。何かがあったのだと確信しています。