意識の声 No.96 より

1998年 7月号

 

★私の人生とはどのようなものか

 

 日本GAPはアダムスキーの要請を受けて私が一九六一年の九月に創立したもので、今年で三七年になります。年月の経過の早いことを痛感しますが、私としてはむしろ一九四五年の八月に大戦争が終結して以来の五三年間の方がアッという間に過ぎ去った感があります。むしろ東京へ進出してからの約三〇年間の方がはるかに長い道程だったような気がしますのは、この間が全く私の激動の時代であったからでしょう。前述のようにこの大都会へ出たということだけでも私には新天地の開拓に似た未曾有の体験でしたし、しかも全くの裸一貫での生活のための闘争でしたから、それだけ苛酷な気苦労の連続であったわけです。

 

 回想すれば、地獄のような郷里の悪環境から脱出すべく、石川啄木ではありませんが、石もて追わるるごとく、この大都市へ流れ込んで何とか生活の地盤を築いたのは翌年の二月のことで、そのときはすでに無一文に近く、手持ちのカメラニ台の内、一台を売ろうと考えていたときでした。英字新聞のジャパンタイムズの広告欄に出ていた求人広告を見て応募しながら忘れていたあるアメリカ系の会社の翻訳部の部員一名の採用試験の通知が来たのは一月中旬のことです。どうせ駄目だろうと思いながら試しに受験してみようと思い立って試験場へ行ってみると、なんと約二五名の男女受験者が詰めかけています。しかもみな中年の人ばかりで若手はいません。これはいけない、受験をやめて帰ろうと思ったのですが、せっかく交通費を使って来たのだから腕試しに受けようと思って中へ入りました。それまでに数十通の履歴書をあちこちへ送っては振られていたのです。

 

 試験は英文和訳が一時間、和文英訳が一時間ですが、英文和訳の長文の問題を見ると、なんと私が田舎で翻訳で読んだことのある、当時アメリカでベストセラーになった大衆小説の内容なのです。この出題はその小説を読んだ人でなければ正確に解けない内容でしたから、私は小躍りして長文の解答を書きました。ところが他の受験者達はみんな途中から答案用紙を提出して出て行きます。最後まで残ったのは私だけで、そのときは、みんな良く出来る人ばかりなのだなあと不安にもなりましたが、あとから分かったのですけれど、みんな途中から投げ出して出て行ったということでした。和文英訳ときたら、これはある化粧品の広告用コピー(文案)でして、いやもう難しいのなんの、四苦八苦して英文を書き綴って提出した次第でした。結果は私ともう一人の年下の二人だけが筆記試験に合格し、最後に面接で結局私に決まったという次第でした。アメリカの有名な小説を読んでいたという僥倖さもさることながら、何か不可視なものから援助を受けたとしか思えない大試験の突破でしたね。これでともかく生活の地盤の確保が得られた私は、毎日会社に絶対に遅刻することなく勤勉に働いて、その代わりに夕方五時にはサッと引き揚げて帰宅し、夜は自宅でGAP活動として和文タイプライターを打ちながら、版下を製作してささやかな機関誌を作っていたというわけです。

 

 ついでながらこの和文タイプなる機械は一人で抱えられもしない重量級の大型機械で、打つとガッチャンガッチャンと凄まじい音響を発する代物で、数時間打っていれば疲労困憊してぶっ倒れそうになるような肉体を酷使するオバケです。この機械を私は田舎にいたときから通算七〜八年使用していますから、私自身が物凄い信念の固まりであったと自負しています。この機械を使用して作った貧弱な機関誌はすべて保存してありますが、来世紀になってアダムスキー問題が世界的に浮上してきたならば、これらの機関誌が大きくクローズアップされるかもしれないと思って秘蔵している次第です。後年ワープロが開発されて出回るようになりましたので原稿書きに大いに利用するようになりましたが、このワープロの便利なこと話にならず、これは科学の勝利だと思いましたね。人間の生活を安楽にするのは科学の進歩であることを痛感します。
その後会社をやめて(というよりはクビになって)一年間浪人した後、私自身で出版社を設立してUFO関係の専門誌を全国書店販売するようになったのですが、これについても資金面その他で不思議な経緯が沢山あります。やはり何かに援助されていたとしか思えません。初期の頃に、私の会社の荷物の上げ下ろし作業を外でやっていた時、見知らぬ若い男性三名がトラックの所へ来て黙って手伝ってくれたことがあります。社員達は「親切な人達だなあ」と言っていましたが、私はスペースブラザーズなのだと、直感で分かりましたけれど、そのときは黙っていました。約一カ月後に社員達との飲み会でそのことを話しますと、みんなは一様に驚いていました。スペースブラザーズに助けられた不思議な話はまだ沢山あります。

 

 最初の会社で私が約三年足らずでクビになったのは、翻訳部の英文チェック係であったイギリス人女性に頻繁にアダムスキーの原書を見せては意味不明の箇所を尋ねたりしたものですから、それを嫌がっていたらしく、久保田をクビにせよと米人社長に讒言(ざんげん)した結果であると後に聞いていますが、私はこのときにクビになったからこそ、「よし、それならワシは自分で出版社を設立して本格的にUFOの専門誌を出したるでえ」と一大決意を固めたのですから、むしろ会社を追い出された方が良かったのです。実際、人間は何が幸いになるか分かりません。何かの蹉跣に遭遇した場合、むしろ「これで自分の良き運命が開かれるのだ!」と信念を固めて良きイメージを持つことですね。

 

 つまり危険な状態になりそうになると何かの不可視の力が働いて私を逸れさせるのです。このことは戦争中に最初に入隊した松江連隊でも発生しています。初年兵として私は野蛮残虐きわまりない日本軍隊に徹底的な嫌悪感を起こし、全くやる気を失ったのですが、それが災いし、自由主義者と見られて上級兵から殴打の連続でコテンパンにやられていました。しかし戦場へ配置されるために下関から輸送船で出港したままアメリカの潜水艦に撃沈されて戦死した推定二千名の戦友の部隊に加えられないで私は除外されて助かったのですから、これまた奇妙です。私のようなグータラ兵隊は弾丸の垣として真っ先に戦場へやられるはずなのです。

 

 しかしその後、新潟県の高田連隊を経て長野県の松本航空隊に転属した私は、心気一転、一大決意のもとに真面目に勤務した結果、選抜兵として抜擢され、独立整備隊の部隊本部付きとして将校の秘書(軍隊では当番兵という)になり、ずいぶん楽をしましたから、結局人間は誠意をもって生きることが根本的に重要であることを学んだのでした。このときの直属上官はNという東大出の非常に温和な当時二七歳の中尉で立派な方でした。私は二二歳でした。ちなみに部隊本部では大野という若い少尉がいて、あるとき私に声をかけて飛行場へ連れて行き、当時最新鋭の世界最高速の双発戦闘機が格納庫に隠してあったのを見せてくれて驚嘆したことがあります。親しくもなかった私になぜそんな物を見せてくれたのか、これまた不可解でした。

 

 以上のように述べますと、私が怒濤の人生を過ごしたように思う人が多いでしょうが、ナーニたいしたことはありません。決して恵まれた平坦な道ではなかったのですが、戦争中から物凄い難儀な生活に耐えてきた人は沢山います。ただし私が慶應大学卒というので田舎出といっても大家の世間知らずの坊ちゃん育ちなのだろうと思う人が多いようですが、これは全く的外れです。私の家は貧乏タレで子供の頃から食うや食わずの環境であり、そのため少年時代はたびたび大病を患っています。悲惨な家庭環境の詳細は省略しますが、とにかく旧制中等学校へは行けず、独学一本やり。そのうち、ある新興宗教の信者となって精神世界探求にのめり込むようになり、それによって体力を取り戻した私は徴用を避けて山奥の土方生活に入り、ここで某国人人夫たちを監督しながら、しかも一方では大いにバカにされながら、二年間を過ごして徴兵検査で完壁な健康体が証明されて軍隊に取られたというわけです。その間も通信制で旧制中学の学習を続けて検定試験に合格しましたが、これは戦後に学制が変わってホゴになってしまいました。

 

 終戦後の大混乱期にはヤミ屋をやったり煉炭工場の職人をやったり、いやもう生活の確保で必死でしたが、これは私だけではなく誰もがそうだったのです。

 

 しかしアメリカに占領された日本では、これからは英語の時代だと考えてこれを猛烈に学習していました。戦後まもなく始まった有名な平川唯一氏のラジオの子供向け英会話講を毎日全身を耳にして聴いたものです。これは非常に優れた講座で、なんと今でも私は当時のテキストを全部保存しています。私の英語の基礎はこれで身についたといえるでしょう。

 

 そのうち朗報が出ました。慶應大学がアメリカの制度を取り入れていち早く大学の通信制教育を開始したのです。これは戦後三年目の昭和二五年だったと記憶しますが、私は二五年に東京まで入学試験を受けに行ってとりあえず特習生として入学し、科目試験を次々と受けては単位を取り続け、さらにスクーリングという夏の集中講義にも毎年出席し、そのうち慶大で実施していた(当時は早大でも実施していた)大学入学資格認定試験に合格して正科生に転じました。しかしGAP活動に熱中するのあまり大学の勉強は放置して、もう学卒の資格などはどうでもよい、英語さえ出来ればよいのだと思うようになったのですが、東京へ出てからは肩書きが必要になって、再度夏に大学の集中講義に通うようになり、やっと四〇歳半ばで卒業したというわけです。通信制といっても卒業率は三パーセント、つまり百人のうち三人しか卒業出来ないという難関でして、これは今でもそうだと聞いています。何を行なうにしても楽ではありませんね、この世界は。したがって私が世話になった学校は小学校と大学だけ。私の学業はおおむね独学一点ばり。しかし私はこれを誇りにしています。また戦後通信制を真っ先に開始した慶鷹大学に対しては感謝の極みです。大体に私は子供の頃から福沢諭吉の「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」というあの雄大な人間平等精神に打たれていましたので、勉強をするなら慶鷹だと決あていのですが、如何せん田舎の最低生活では全くの夢に過ぎなかったものを、正規の卒業資格を与えられて卒業生名簿に多くの有名人と共に私の名前が載っているのですから、頑張った甲斐があったなあと感無量です。

 

 しかし通信制は大変に困難です。死に物狂いで勉強をやり、試験場へ出かけて次々と科目試験を受けては単位を取得する必要があります。この勉学は日常の勤務後に主として夜間に自宅で行ないますし、しかも私はGAP活動と並行してやっていましたから、その困難さは言語に絶するものがありました。莫大な忍耐力と信念を要する試練ですが、ここでも私は絶大なレッスンを学んだのでした。ついでながら私は卒業後に東大大学院の英文学専攻修士過程に入ることを計画していたのですが(戦後東大はオ…プン制になったのと授業料が幼稚園より安いから)、これは家内の猛反対で中止しました。今思えば複雑な気分ですが、アダムスキーでさえ無学歴ながら超偉大な人物として私たちの尊敬と希望の星になっているのですから、まあ、ええわい、と自分を慰めているところです。実際、アダムスキーという人は私たちにどれほど勇気と希望と信念のカを与えてくれたかしれません。人間、問題は学歴ではなくて高潔な人格にあります。絶対に人格です。

 

 私の苦闘物語はまだ膨大な内容を含みますが、こんなものをネタにして自叙伝を書いて儲けようなどとは思いません。ただこれまでに私を援助し激励して下さった多数の方々に心から感謝の念を捧げるのみです。私は功成り名とげた人間どころか、これからが正念場と思って、ますます自己修練に専念するつもりです。皆様方もいろいろと苦難に直面されることもあるでしょうが、そのときには私のことを思い出して下さい。そして一声かけて下されば何らかのご援助を致します。「絶対にあきらめない力」の象徴、それが私です。皆様のご繁栄を祈念致します。合掌再拝