アダムスキーのUFO体験と波乱の生涯

アリス・ポマロイ/久保田八郎 訳

 

アリス・ポマロイ女史はアダムスキー最後の高弟として1965年の一年間師事し、彼が他界したときには葬式の手配までした人。現在は80歳を超える高齢ながらメイン州の辺鄙な森の中で一人暮らしを続けている。

 

 

UFOについて何も知らない大衆

 

 こんにち、人々はUFO(未確認飛行物体)の分野についてどんなことを知っているでしょうか。ほとんどの人は、いまだにUFOを単なる謎の物体ととらえているにすぎません。

 

 1946年の時点で、おもな国の首脳たちがUFO関連の知識をどれほど多く持っていたか、さらには新聞や雑誌、ラジオ、テレビ等を通じてUFO関係の情報がどれほど多く流されてきたかということさえも知っている人は極めて少数です。

 

 

 

天文学者を批判したアダムスキー

 

 ジョージ・アダムスキーは1965年(訳注=この年4月に彼は他界した) ニューヨーク州シラキュース市で行なった講演の中で、自分の1946年以降の特殊な活動の一部と、UFO問題全般のそれまでの推移を明瞭に解説しました。
(訳注=アダムスキーと異星人の驚異的なコンタクト体験は『新アダムスキー全集』第1巻『第二惑星からの地球防間者(中央アート出版社刊)に詳述してある』)

 

 彼はまず天文学者達の多くが空想でものを言っているということを指摘するために、『ハントリー・アンド・ブリンクリー』(訳注=テレビのニュース番組)が、報道した月に関する話題を持ち出しています。それは「科学者達によれば、月面からは毎日10トンものホコリが舞い上がっており、そのうちの5トンは地球に降りそそいでいる」というものでした。続いて彼は実に楽しそうに聴衆に問いかけたのです。「もし月に、よく言われているように空気がないとしたら、ホコリはどうしたら月面から舞い上がることができるでしょうか?」

 

 そして「月が誕生以来長年に渡って(40〜60億年間)そのようにしてホコリを放出し続けてきたということは、我々のあの衛星が最初はとんでもなく巨大であったことを意味してもいるわけです」と続けています。「天文学者達の多くはたんに推測しているにすぎないのです」

 

 アダムスキーはきっぱりと断言し、次にマリナー2号が送ってきた金星に関する情報に話題を転じました。

 

 

 

金星観測の矛盾と疑惑

 

 金星は厚さ2130メートルもの濃い雲の層で覆われています。それなのにマリナー2号の観測データは、その惑星表面の気温が摂氏427度もあることを示していたというのです。

 

 しかしジョンズ・ホプキンズ大学の研究チームは望遠鏡を気球に取り付け、地上26000メートルの高空から金星を観測した結果、大気の上層部に存在する氷の結晶を確認するに至っています。この二つの観測結果はどのようにしたら折り合いをつけられるでしょうか。
(訳注=ジョンズ・ホプキンズ大学は米東部メリーランド州ボルティモアーにある名門私立大学。特に医学部が名高い)

 

 また摂氏427度といえば、人間の血液が沸騰してしまうほどの温度です。それなのに金星探査計画はなおも続いています。私達の誰もが知っているように、あの後も探査機が次々と金星に送られています。私達は「一般には知られていない事実に関する知識を軍人達と共有した科学者は一人もいない」などと決してみなしてはなりません。(訳注=実際には科学者達も軍に協力して秘密を知っているの意)。

 

 ジョージ・アダムスキーは1954年4月発行の『ブルーブック』誌に掲載された、ニューヨークのある科学ライターが書いた記事を紹介しています。その記事の中で著者は次のように明言していました。

 

 「私がこの記事を書いているいま現在、月面は建築ブームで沸き立っている」と。その事実はジョージ・レナードが書いた『誰かが月面にいる』の中でも充分な証拠資料とともに紹介されています。

 

 アダムスキーも1960年代に入ってまもなく、パサデナ市のカリフォルニア工科大学における講演で、地球を観察するための施設が月面に建設されつつあると断言していました。
(訳注=カリフォルニア工科大学は西部の私立名門大学。後にアダムスキーがこの大学の教授として招聘されたが、断った。コンタクティーとしての自由な立場を束縛されたくなかったからだという)

 

 ジョージ・レナードは先に述べた本の中で「米国は月面に軍事基地を持っているが、それは軍事技術プロジェクトなので、その事実は秘密にされている」とも書いています。

 

 

 

UFO問題の規制を始めた米政府

 

 アダムスキーは1965年の講演の中で、米政府のUFO問題への対処方針についても触れています。

 

 彼によれば、UFO問題があまり世間に広まっていなかった頃の米政府は、手持ちのUFO関連の情報をかなりオープンに公開していたということです。しかしUFOに関する問い合わせの手紙がワシントンに大量に届くようになると、政府の方針は一変しました。大衆のUFOに対する関心を削減するために、関連情報の流出を規制し始めたのです。

 

 この話をしたあとでアダムスキーはその講演の直前まで、3週間にわたってワシントン市に滞在していたと語っています。ワシントン市で彼はUFOを撮影した何本かの映画フィルムをまずテレビで紹介し、続いて何人かの政府高官達にも見せています。

 

 その政府高官達は、それらの映画フィルムに写っていたものがUFOであることを否定しなかったらしいのですが、空軍はそのフィルムの存在を歓迎しなかったようです。そのフィルムが公開されたために、空軍は一部の人達からウソつき呼ばわりされることになったからです。空軍は公式にはUFOの存在を否定し続けていたのです。

 

 しかし空軍のそんな思惑を無視するかのように、すぐそのあとで総勢7名ほどの上院議委員と下院議員のグループがアダムスキーの宿舎にやってきました。彼らはアダムスキーに、次にワシントン市に来るのはいつなのかと尋ねて帰って行ったそうです。

 

 

 

大流星群のさなかに大母船が出現!

 

 1946年に時代を戻しましょう。これもアダムスキーが同じ講演で語ったことです。

 

 同年の10月19日、アメリカのアマチュア天文家達は定時間内に流れる星の数を数えるように要請されました。当時、地球は大流星群の中に突入していたからです。その観測にはB29爆撃機も狩り出されていました。

 

 カリフォルニア州のパロマー山の山腹には20名ほどのアマチュア天文家が集合していました。アダムスキーもその一人でしたが、その夜、流星を数えていた彼らの上で驚くべきことが発生したのです。

 

 巨大な飛行船のような物体がゆっくりと夜空を横切って行ったというのです! それはサンディエゴ方面からロサンゼルス方面に向かって、つまり南から北に向かって飛んでいたのです。

 

 アダムスキーはそれを見て最初は船室が下部に取り付けられていない新式の飛行船と思ったようです。しかしそれは飛行船ではなかったのです。黒っぽい色を帯びていて、胴体にいくつもの窓が並んでいたということです。

 

 その物体は地上から2500メートルほどの高さをゆっくりと移動していましたが、やがてバルカン山を越えたあたりで船首を上方に突き上げて、飛び散る火花を残しながら船体は急に加速して空中へ消えてしまったそうです。(訳注=この件は新アダムスキー全集第1巻『第二惑星からの地球訪問者』中の第1部にも述べてある)

 

 サンディエゴのラジオ局KFSBは「その葉巻型物体はサンディエゴ市の真上をかなりな低空で横切ったために、高いビルの上にいた人達は、その物体の丸窓から外を見ていた人達の顔を見ることができた」と報じています。

 

 

 

宇宙から来る大母船群に気づく

 

 この事件はおそらく現代世界の人々に宇宙かの訪問者の存在を知らしめた最初の出来事だったことでしょう。アダムスキーは他の人達と同様に、そのような考え方を素晴らしいことと思っていたようです。

 

 それから数ヶ月後、アリゾナ州のある空軍基地から空軍将校達のグループが、パロマー山へ登る途中、アダムスキーの家に立ち寄ったのです。(訳注=これはアダムスキーの自宅に隣接していたアリス・ウェルズ経営の軽食堂に立ち寄ったことを意味する)

 

 アダムスキーが宇宙からの訪問者達が存在する件に関する自分の見解を述べましたところ、一人の大尉が次のように言ったのです。
「あなたが彼ら(宇宙から来る訪問者達)のすぐ近くまで接近すれば、あなたが考えるほどに素晴らしいことではないでしょうね
(訳注=異星人達も見かけ上は地球人と変わらないから驚くほどのことではないという意味)」

 

 どうやら異星から来た宇宙船が砂漠地帯に着陸して至近距離から観察されたらしいのです。

 

 

 

アダムスキーにUFO撮影の要請

 

 ケネス・アーノルドがレイニア山上空で9機の円盤が飛ぶのを見たと報告したのは翌年の1947年のことです。そしてアメリカの砂漠地帯で行なわれていた核実験の前後に必ずUFOが出現するという噂が流れ始めたのはそれからまもなくのことです。

 

 1949年、サンディエゴ近郊にあるポイント・ロマ海軍電子研究所のJ・P・マックスフィールド氏が、アダムスキーに向かって、空中を飛行する奇妙な物体を写真に撮影するようにと要請してきたのです。二人は月面、特にコペルニクス・クレーターに狙いを定めるのが最上だということで合意しました。アダムスキーはこれに関して『Flying Saucers Have Landed』(空飛ぶ円盤は着陸した)の中でざっと述べています。
(訳注=新アダムスキー全集第1巻『第二惑星からの地球訪問者』(中央アート出版社刊)中の第1部に出ている)

 

 そして講演の中ではさらにマックスフィールドがそのとき「月には月人がいるんだ」と語ったことまで披露していますし、そのとき彼らは望遠鏡は口径15インチよりも6インチ反射の方が扱いやすいという点でも合意しています。
(訳注=アダムスキーはアマチュア天体観測家としても高度な技術と知識を有しており、かれが住んでいたパロマー山腹のパロマー・ガーデンズと名づけた大地では、携帯用の6インチ反射望遠鏡とドーム付きの15インチ反射望遠鏡を駆使していた)

 



 

 

ばからしい言い逃れ

 

 アダムスキーはまもなく宇宙の飛行物体を撮影した写真を2枚海軍電子研究所に送ることができました。しかしその後彼が受け取ったのは、「ロールフィルム(訳注=35ミリフィルムのように巻いたフィルム)は静電気を帯びやすい」と述べた手紙だけでした。彼が撮影に使ったのはシートフィルムだったのです! 
(訳注=アダムスキーが6インチ反射望遠鏡にカメラを装着している写真が彼の第1著に出ているが、このカメラは横83ミリ、縦108ミリの手札判シートフィルム(一枚ずつ用いるフィルム)を用いる木製カメラであることがわかる。手札判のロールフィルムというのは存在しない)

 

 アダムスキーがシートフィルムを用いたことを指摘しても、研究者からの返事は「我々は写真に写っている物体を宇宙からの訪問者と結びついたものとは考えていない」という
そっけないものでした。UFO問題に関する典型的な言い逃れは、その頃から始まっていたのです。

 

 一方、砂漠地帯に不思議な物体が次々と着陸しているというニュースが全国的な放送で報じられて以来、『空飛ぶ円盤の存在』はますます多くの人に信じられるようになってきました。「1機の円盤が着陸し、その中から4名の乗組員が出てきて付近を歩き回った」という話も報じられましたが、この話はパロマー天文台から出た情報にもとづいて有名なラジオキャスターのウォルター・ウィンチェル自身によって紹介されました。

 

 

 

官憲の根強い否定

 

 アダムスキーは講演の中で、異星人から教わったこととして、他の惑星の宇宙船は電磁エネルギーを利用して飛ぶのだと説明しています。核爆発で発生する放射線が地球の磁場を狂わして、それがいくつかのUFOを制御困難な状態に追い込んでいたのです。それが原因で墜落したUFOもあったようです。

 

 フランク・スカリーが1950年に出版した『空飛ぶ円盤の内幕』によれば、これらのUFOが必ずしもひどいダメージを受けたわけでもないようです。彼は、核実験の直後に砂漠地帯に落下した3機の円盤について書いていますが、そのときには身長1メートルほどの異星人の遺体が34体も回収されたということです。

 

 その情報は「我々はいかなる円盤も遺体も回収していない」という関係高官のコメントによってすぐに否定されましたが、いまなおその事件は多くのUFO研究家達の調査対象になっています。

 

 

 

法王ヨハネ23世の宇宙的包容

 

 アダムスキーが同じ講演の中で語っていることですが、フランク・スカリーがその本を出してまもなく、アダムスキーは他の数名の人と一緒にある政府関係主催の会合に呼び出されたということです。彼の秘書も同行しています。(訳注=この秘書というのはアリス・ウェルズと思われる。彼女はアダムスキーに対して最も長く忠実に尽くした秘書だと言われているが、アダムスキー亡き後の晩年はたびたび訳者にアダムスキーに関する思い出話をたっぷりと聞かせてくれた。彼女が他界する少し前に彼女に会ったが「私はアダムスキーを愛していました」と訳者に述べていた。)

 

 その会合の場には、複数の「大物」とニューズメディアの人達、それとその会合の内容が表沙汰になることを阻止する役目のシークレット・サービスの連中が陣取っていました。

 

 その会合で、2機の墜落したUFOから32の遺体が回収され、解剖のためにロックフェラー研究所に送られたことを「大物」達が認めたというのです。

 

 しかもそれらの遺体は解剖の結果、我々の肉体と同じ構造を持つことが判明しました。最終的にはそれらの遺体はカトリック司祭の立会いで手厚く葬られたようです。しかもそれにはこんな興味深い話がくっついています。

 

 スペルマンとマッキンタイヤ両枢機卿は、異星人の遺体を弔った司祭を、聖職者にあるまじき行為をしたと言って叱責したというのです。

 

 しかしローマ法王ヨハネ23世の考えは違っていました。彼は亡くなる前に「司祭はたとえどこから来た人に対しても、別け隔てなく葬儀を施すことが出来る」という法律をわざわざ制定していたのです。
(訳注=ローマ法王ヨハネ23世は生前にアダムスキーと親交があり、彼をバチカン宮殿に招待して黄金のメダルを授与している。きわめて宇宙的な包容力に満ちた人で、異星人問題に強い関心を持っていた。1963年5月末にアダムスキーがバチカンへ法王に会いに行ったとき、彼を案内したのは僧服を着た異星人であったという。この件は新アダムスキー全集第9巻『UFOの真相』の310頁から出ている。

 

 ついでながら訳者が1983年8月に日本GAPの研修旅行でバチカンを訪れたときに大聖堂内で異星人に案内を受けた件についても詳述してある)

 


(ありし日のジョージ・アダムスキーとアリス・ポマロイ女史の写真) 

 

 

 

訳者あとがき

 

 アダムスキーの人生は波瀾万丈のドラマであったらしい。なにぶんにもこの世界の誰しもが夢想もしなかった別な惑星の大文明と遙かに進化した人間の存在を伝えたばかりか、彼らの乗り物である宇宙船なるものを写真に撮影して発表したのであるから轟々たる非難攻撃を被ったのも当然である。訳者が彼の最初の書物『Flying Saucers Have Landed』(邦訳『空飛ぶ円盤実見記』)に続いて出された『Inside The Space Ships』(邦訳『空飛ぶ円盤同乗記』)の邦訳を出したときには、国内でも週刊誌等を通じて揶揄と嘲笑の嵐が吹きまくったことを覚えているし「アダムスキーは学歴がないから無学である」と決めつけて、あたまからバカにしてかかった手合いが多かったことを記憶している。最高学府を出ても宇宙の実態を学ぶわけではなく、むしろ証明不可能な物事を信じてはならない、または科学的態度とは疑ってかかることだと教えられる学校の出身者ほどアダムスキーの体験記を偽作として一蹴する傾向が濃厚であった。

 

 しかし日本の超一流大学の某教授が、「こんなこともあるかもしれない」と言ってアダムスキーの体験記を支持した例もあったし、自殺したある有名な作家はアダムスキーの体験を強く支持して、他の作家にも読むことをすすめていたと聞いている。

 

 アダムスキー自身もずいぶんひどい目にあったらしい。彼の体験にあこがれて彼のもとで助手になったベイカー空軍退役軍曹は、しまいにはアダムスキーに殴りかからんばかりの勢いで罵倒して去ってしまったし、同じくアダムスキーの秘書として大活躍をやったキャロル・ハニーのごときは、アダムスキーが後継者にまで指名したにもかかわらず、ついに大げんかを吹っかけて飛び出てしまった。

 

 なぜこのような悲劇に終わるのか。それは彼らがアダムスキーに向かって「自分たちもSP(スペースピープルすなわち異星人の略称)に会えるように取り計らってくれ」「宇宙船に乗れるように頼んでみてくれ」という願望を持ちだして結局は断られたからである。

 

 これに類似した出来事は、アダムスキーの第1著『空飛ぶ円盤は着陸した』の共著者であるイギリス人デスモンド・レスリーでさえも「SPのところへ連れて行ってくれ」とアダムスキーに頼んだところ、以外にもSP側から断られたという事実がその著書に述べてある例からもわかる。

 

 なぜ彼らは断られたのか。これは深い人間のカルマの問題に帰着すると思われるのだ。つまり異星人問題に熱意があるように見えても単なる興味本位的なレベルを出ない人にはSP達は接近しないと思われるのである。

 

 すなわち地球人の一人間の過去世からの宇宙的な探求、特に人間の生き方と宇宙の法則に関する精神世界的な探求心を強く持っているか否かを彼らSPは知っているらしいのだ。

 

 もう一つ重要なのはテレパシー、遠隔透視、その他いわゆる超常能力を持つこともコンタクティーになれるかどうかの基準になるらしい。そうなれば宗教的になる必要があるかというと、それは違う。SPは地球の宗教を重視してはいないようだ。宇宙の実態、たとえば我々の太陽系にはすべて人類が居住し、想像を絶する大文明を構築しているという事実をテレパシックに認識する能力があるかどうかを見るらしい。それについては個人が長い転生において持ち越してきた過去世からのカルマが重要な意味を持つということである。

 

 しかし来世紀になれば地球人も宇宙開発により、まず科学的に太陽系の実態を知るようになり、12個の惑星に大文明が存在することを知って驚愕し、価値観の大転換を起こすという。

 

 ついでながらアダムスキーは2000年昔に大聖者の12使徒の一人であり、1952年11月20日にカリフォルニア州の砂漠地帯デザートセンターに着陸した円盤から出てきた金星人はその大聖者あったと聞いている。彼は磔刑により死亡したのではなく、当時仮死状態のまま仲間のSPに助けられて蘇生し、しばらく活動を続けた後に母星の金星へ帰って行ったという。

 

 1992年1月26〜7日、日本GAPの6名から成る視察団はデザートセンターへ向かった。27日の午後2時過ぎ、突然西から巨大な母船型物体が出現してゆっくりと眼前を東へ飛んだ。一同は興奮して眺めたが、うち3人は双眼鏡で翼などがないことを確認した。異星の大母船であることは間違いない。この詳細は本誌第117号に「巨大宇宙船、デザートセンター上空に出現!」と題して掲載されている。

 

 後日聞いた宇宙情報によると、あれは金星から来た大母船で、あの中の乗客のうち7名だけが下界の我々を見下ろしていたが、その中に金星人に転生したアダムスキーもいたと聞いている。

 

 

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