投稿者 コスモス 日時 2004 年 7 月 26 日 06:19:29:
先週は、ここ数年間の心の中のわだかまりが解けたような出来事が
二つあった。
これらは自分の思いに従って周囲の人々にメッセージを送り続けた
ことが積み重なって、一つは自分に気付きが与えられたこと、もう
一つは自分にメッセージが返ってきたことだと思う。
15年くらい前、結婚する前のことですが、私は他人とのコミニュ
ケーションについて考え違いをしていた。
キャッチボールに例えると、相手がきちんとボールが捕れるように
ボールを投げなければいけないと思いこんでいた。
妻とつき合うようになってから、キャッチボールとはそんなことは
ではなくて相手にボールを投げること、あるいは相手からのボール
を受けることを楽しむものなんだと気がついた。
というより彼女から教わった。
だからといって非常識なことをしてよいわけではないのだが、ここ
数年、ひねくれたことを続けていた。
その一つがお盆の供養(施餓鬼)。
父が亡くなったのが4年前の8月で、普通は初盆だけ戒名で供養し
てもらって、その後はご先祖様に仲間入りするらしい。
仏教には特に関心はないし、人間は転生すると信じているので、
普通に済ませていれば、何の問題もなかったろう。
ところが初盆の供養した翌年の7月、施餓鬼の案内をもらったら、
何となくまだ供養しなくてはいけない気がして、父の戒名を書いて
供養してもらった。
ちなみに施餓鬼には檀家の人々がお寺に集まるわけで、私も出席し
て、読経やらお坊さんのお話を聞いたりしました。
ただしお寺の住職さんは私に戒名で施餓鬼をするのは初盆だけでよ
いと諭すこともなく、先週、今年で4回目の施餓鬼をしていただき
ました。(当然、2年前には3回忌の供養もお願いしています)
今年の施餓鬼の案内をもらった時は、いつまで、こういう形で供養
が続くのか?複雑な思いでした。
ところが、今年の施餓鬼では読経が済むと不思議と気持ちが晴れて、
今まで何かこだわりがあったなと気がつきました。
施餓鬼の習わしにこだわらないつもりで供養をしてもらっていた
はずが、実はこだわりがあったようです。
ここまで読まれた方から「あなたは何が言いたいのか!」と怒られ
そうですが、やっと心の整理ができたということかもしれません。
まとまりの無い話でどうも済みません。
もう一つの話は別の機会にかきます。
最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。