投稿者 らむじ 日時 2001 年 5 月 16 日 22:30:17:
アダムスキ−哲学にふれて二十数年。
すきっ腹の子供が黙々と飯をほおばるように、
全集を何度も読み返し、彼の語った言葉の
すべてを頭の中に詰め込み、それを日常生活
のあらゆる場面で、実践することにエネルギ−
をついやしてきた。
彼が、しばしばイエスの言葉を引用するので
それを理解するために新約聖書も幾度となく
読んだ。また「生命の科学」には随分難しい科学
のことが書かれているので、分子生物学を
はじめとするいろんな分野の入門書も手当たり
次第に読んだ。
なるほどアダムスキ−哲学は素晴らしい。
新約に出てくるイエスの言葉も魅力的だ
おかげでと言うのもなんだが、知識面においても
精神面においても二十数年前の自分と比べて
みれば、何がしかの進歩向上があったような
気がしていた。
しかし最近ふっと考えることがある。
自分はずっとアダムスキ−やイエスの
まねをしてきただけではないだろうか。
もっと悪く言えば、さるまねをしてきた
だけかも知れない。「学ぶ」はまねるが
語源だと言う。だけどそこには自分の
アイデンティティ−がない。
自分が感じていた心の進歩は
単なる錯覚にすぎないのではないか。
自分の心の中をよくよく観察して見れば、
なにやら偽善的な、いかにも善人であるごとく
振舞っている自分の後ろに、置き去りにされて
忘れられようとしている、泥まみれの自分がいる
ことに気づいた。彼はちっとも変わっちゃいない。
昔のままだ。
本当の自分というものを、置き去りにして
もう一人のエゴイスティックな自分が
世間に自分をよく見せるために、哲学を
身にまとい美しく装って、さも自分は善なる
者であるかのように振舞ってきたのではないか?
理論武装して、他人を打ち負かすことに
エネルギ−をついやしてきたのではないか?
一方が、偽善であっても一応善の衣で美しく装う。
本当は善悪を区別しない、というか
その判断もままならない自分なのに。
もう一方の置き去りにされてきた自分は
臆病者だ。とても人様の前で自己主張を
述べる勇気などかけらもない人間だ。
しかし多少の慈愛はもっているようで
エゴイスティックな自分の後ろから
なにがしかのやさしさを見せてきたようだ。
アンバランスな二人の自己の存在。
私の多重人格の原因はここにあるのかも知れない。
心にあるこの双子の兄弟は常に反発し合い、
優しく振舞うかと思えば激しく怒る。
親切にするかと思えば、平気で人をだます。、
寛容の心をみせるかと思えば極端に狭い
心で感情的になって人を責めるヒステッリクな
自分を演出する。それが自己嫌悪となって
自分をもっと美しく装う哲学の衣をくれと
アダムスキ−に泣きつく。
アダムスキ−依存症だ、アダムスキ−症候群だ。
しかしなにやらこんな生き方にあきてきた。
何度もいうがアダムスキ−哲学は素晴らしい。
しかし私はずっとこの哲学に支配されてきた
ような気がする、なんていうか・・・
そう、哲学の奴隷として生きてきたようだ。
考えてみれば人は、いろんなものの奴隷として
生きている。仕事の奴隷、家族の奴隷、その他
趣味や研究、時には所有物でさえ私を支配する。
パソコンが言う「早く、インタ−ネットしろよ」
時計が言う「遅刻するぞ」
私は、自由になりたい。誰からもなにからも
支配されたくない。言葉で自分を飾ることもやめよう。
心のおもむくままに、直感のひらめくままに。
その日暮らしで充分だ、明日のことなど考える
必要もない。理論家を気取るな、哲学者を
気取るな、言葉の魔術師を気取るな。
心に自由を取り戻そう、仮面をはずして。
もちろん、アダ−ムスキ哲学の記憶は消えない。
しかし記憶は記憶だ、気にすることはない。
貧しい言葉で語ろう、危うい言葉で語ろう。
それが自分にはお似合いだ。
他人のことなど気にしない、自分は自分だ。
心の中に肥大化した知識と理論を削ぎ落とそう。
心のダイエットだ。
自分と真摯に向き合って、自分を見つめて、
シンプルに生きよう。心に翼をつけて
自由に飛びまわろう。