投稿者 /Ka++ 日時 2002 年 6 月 26 日 01:54:35:
円盤について、想念観察について、その他諸々。
難しい、理解に苦しむという話をよく聞く。
学問の名をも冠しているのだから難しいものでしょう。
でも難しいと聞いたからといって、難しく考えないでも良いと思う。
例えば、自ら体験したことで、永遠の一瞬とも思えるような、
濃い時間を過ごしたことがあるだろうか。
その瞬間の、自分の心が変化していく様子、五官が得ている情報、
周囲の雰囲気などを他人に伝えることはできるだろうか。
こういうものは簡単に伝わるものじゃない。
また、相手の返事があまりにも自分のイメージと違っていた場合、
自分で体験した完璧な時間・世界を初めより小さく感じてしまうことになる。
それは互いにとって、とてももったいないことだ。
あまりに簡単で、もしくは純粋なことは、言葉だけでは表現が難しい。
もどかしさを感じ、言葉を使い果たしても伝えたいことが残る。
それでもまだ伝えたくなるのが、人間の特徴のように思う。
響き合う楽器のようなものだ。
想念観察とは一瞬の印象をとらえるようになるための訓練だと考えられる。
自然に、そして自動的に想念の速度に合わせられるようにする訓練だ。
これは動体視力を例にすればわかりやすいかもしれない。
駅のホームから、通り過ぎる新幹線の中にいる乗客の人数から
顔の特徴まで見えるようになる訓練だ。
別の例としては、歯車に別の歯車を組み合わせるようなもの。
高速回転する歯車に、遅い歯車を組み合わせようとすると、
歯がうまく噛み合わずに両方が壊れる。
同じくらいの速度であればうまく噛み合わせることができる。
これは訓練の順序と効率にもあてはまるかもしれない。
1速2速3速・・・と順々に変えてゆくのが妥当と思われる。
1速からいきなり6速にしてもマシンの負荷が多くなり、効率も悪いだけだ。
基礎としては最低限、想念の速度に合わせる能力を誰もがもっていることを
教え伝えてゆく必要があるように思う。
学校のカリキュラムには組まれず、社会人になってもそんな講習はない。
オーケストラの一員になる前に、ソロ活動できるまで育ててくれる所もない。
捉える印象も一人一人違っているだろう。それも役割による。
科学であったり、芸術であったり、身体を鍛えることであったり、
ある人は笑わせて人を和ませることだろうし、
またある人は雨の日に窓辺で詩をつくることかもしれない。
余)永遠の一瞬という表現は映画「スタートレック 叛乱」から多くの影響を受けています。
機会があればご覧くださいませ。