投稿者 純 日時 2003 年 8 月 03 日 13:32:11:
回答先: 0の発見 投稿者 紹介の本を探すと 日時 2003 年 8 月 03 日 10:04:45:
アダムスキー氏の情報によれば、太古の地球では、異星人の科学と同様に、ゼロを用いない1〜9までの数学上の宇宙の原理が理解されていたそうですが、地球の研究者によると、一般的に0の発見の起源は明らかでないとされています。
ただ、「0に敬意を」で私が述べたように、東洋思想の無や空は絶対無つまり有(現象=色)の因ですので、大乗仏教の色即是空の「空」と
インド哲学の絶対無の「無」は(数学の0のヒントとなった可能性はあるにしても)あくまでも、インドの名数法、アバクスの計算具、数の対象性などの諸説が「数」の0の起源の候補かと思います。メソポタミアやマヤ人の数字には「印の0」はあっても、「数の0」までは発展しなかったそうです。
また、インドのプラフマーグブダ(598-660)が負の数の規則をつくり、マハーヴィーラ(850頃)がゼロに関する演算をつくったという記録がるそうで、負(マイナス)の数が早く整備されたと考えられているそうです。現代の日本のように借金苦の人が多かった背景があったかどうかは知りませんが。いずれにせよ、そこから「みかんがマイナス1個ある」とか、「お昼はラーメン0杯食べました」などという不自然な言葉も理屈ではできてしまうようです。
「零の発見」の著者の吉田洋一氏は「絶対無の考えも捨て難く、またアバクスの示唆もさることながら、インド独特の名数法に負うところが少なくなかったと考えるのもそう不自然ではないように思われる」と述べています。つまり第一線の研究者の中でも0の発見の根拠は見解が一致していないのです。
私は0の起源の説は、天文学の「ビッグバン理論」に似ていると感じます。TVである高名な学者が「ビッグバンがあったかどうかは、はっきりしていませんが、それはともかくとして...」と話し始めたそうです。私なら「ちょっと待って下さい。始まりをあいまいにしたままで、その上に理論を構築していくのですか?」と言ってしまうとこですが。
私は科学は、あくまでも自然を理解するためのものと思っていますので、理論のための理論、スポーツで言えば「練習のための練習」では
それなりの効果はあるにしても、本質を見失っているというか、自然な状態から分離していくと思うのです。
絶対無と数字のゼロの違いを明確にしていない状態で構築されてきた数学という巨大な立派な建造物は、それによって多くの益を人類にもたらしてきていますが、実は土台から崩れる危険をはらんでいるのではないかという危惧を感じます。
自然ということで、運動を例にあげると、私がラグビーをしていた時、足を負傷して、まともに歩くことすらできない状態の時でも、試合で走ることは意外にできて、成果も残せ、チームに貢献できました。その試合中にもし、敵の選手が「おまえ今一瞬止まったときに、すこしビッコひいてなかったか?、走るのをやめて俺の目の前でゆっくり歩いて見せろ」と言おうものなら、私は「ウルセー、この野郎!」とキバをむいたことでしょう。
ですから、ゼロについて私が言うことで、「異星人が何て言おうと関係ないだろ!余計なお世話だ」と激昂する数学者もいることでしょう。なぜなら、彼らの土台が崩壊する恐れがあるわけですから。
GAPの久保田先生も、太陽系の他の惑星の真実が今すぐ地球社会に知らされるのは混乱を招くので、隠蔽もある意味では賢明な判断だとおっしゃっていたと思います。ですから、私も、今すぐゼロのない数学を考えようとは主張するわけではなく、将来のために少し心に留めておきましょうといいたいのです。