投稿者 伊知地充 日時 2004 年 5 月 10 日 05:13:54:
自分に起きることは全的に自身の責任です。
自覚の有無はともかく、自分の未来を考えなければ、自分の仕事・自分の性癖・自分の妻・自分の隣家・自分が買った本・自分の履歴・自分の思想その他無数の《自分》は問題視されることはないからです。そもそも自分を意識すること自体、責任を負うということにほかならないず、実存主義者のようにことさら自由を強調せずとも、われわれは常に自分という責任の中で生活し、思惟しているのです。
自分というのはまさに生命線です。自分自体が重荷であったり自分が恐怖である場合もありますが、自分を喪失するのはさらに恐怖である。普通に自分という存在を享受している限り、自分を否定する事柄を回避しようとするのは至極当然のことと言えるでしょう。宿命という言葉が妥当かどうかは知れませんが、《死》に怯え、自分の存在理由を脅かす思想や論理から逃れていたいのは人間として宿命なのです。時には「死なんて考えたって理解できない」「生きているのに生きること、存在することを否定するのは愚かなこと」「人生を否定する論理は聞いても無益」として跳ね除ける《必要があります》。
つまり、《信仰》。無益なもの、邪悪なものを避けたいとするのは信仰にほかなりません。自分が納得できる人生を切り開きたい、有意義な人生という時間を過ごしたいとするのは学問では在りません。《幸福学》なのかもしれませんが、《倫理学》ではありません。
倫理的自由意志を追究するというのは、有意義な人生観・価値観を追究するといことではありません。《有益な》ということを前提としてしまうと、すでに真理を放棄してしまうことになります。
人間は《自由意志》を発明する必要がありました。倫理的な要請です。自由意志という特別なものを人間にかぶせなければ、神から脱却することも、神へと近づくこともできないということを知ったからです。そもそも人間が自分の行動に対して《法的に》責任をとることをしなくなったら収拾がつかなくなります。ですから、自ら発明したものを論理的に《認知》してやる絶対的必要が生まれ、論議の的となったのです。
われわれはうたた寝に見た夢に対しても責任があり、責任を果たしています。見たという事実はそれを意識する限りにおいて自分のものであり、見たということによって責任は果たされています。夢の中の自分の行動ははなはだ不本意で許しがたい内容を含んでいるにせよ、もっと続きが見たかったにせよ、《自分が見た夢》と意識する限りにおいて自分のものであり、自身の責任である。
ただし、倫理的責任となると問題は異なります。夢は忘れてしまうことによって責任から離れますし、現実の世界で起こったことではないので、対現実として倫理的責任は最初から無いのです。しかしながら、夢の中の出来事としてその範疇の中で考えるなら、夢の中の《私》は現実世界の私と同じように《行動しています》し、無益ですが議論の対象にはなるでしょう。
存在物は一部の空間を占有することである意味責任を果たしていると言えるかも知れません。石っころは存在しなければ池に投げられることも無いでしょう。生き物は、生きていることで少なくとも生物学的な責任を負っています。生命を維持するために必要な物質を摂取し、生きるために活動しなければ存在の死が待っているだけです。存在者は当然自身の知覚器官の結果として自身を見出し、他者との関わりを意識することになります。関わりがなければ自身は存在しなくなります。関わるということは、存在者にとって生命線であり、自明のことでもあります。関わりを否定することは生き物としても、存在者としても不可能す。
人間は受精卵だった時代から生物学的関わりの中で生き、ある程度胎児として成長すると立派に存在者として胎内での出来事を記憶するようになるといいます。生まれ、成長の過程で胎児期の記憶を持ちつづける人は極めて稀でが、われわれは胎児として自意識を持った段階ですでに存在者として生まれていたのだと言えるのかも知れません。
われわれは自身の存在の根拠ではありません。われわれは自身の身体および脳を《引き受けた》わけでも、ましてや自ら創出したわけでもないことを知っています。にもかかわらずわれわれの身体と脳は《自分》という存在を創出します。もろもろの遺伝プログラムがあり、知覚作用があり、記憶機能があり、欲求・意志するはたらきと書き換えられたもろもろのプログラムがあります。それぞれの働
きや蓄えられた記憶は連結し、作用しあって外界から情報を取り入れつつ、成長を止めません。
われわれは自身を取り巻く環境に能動的に働きかけます。それがわれわれの身体であり、脳のはたらきだからです。脳は自律的です。
われわれが自身の身体と脳を《使って》いるわけではありません。そのようにも見えますが、われわれはわれわれの身体(感覚器官・神経・血液・骨格その他)であり、脳そのもの活動の結果なのです。よく「頭を使え」と言いますが、文字通り脳に対して指令して物事を処理しているなんて本気で思っている人はいないでしょう。「頭を使え」という想念は脳の働きによって生じるのであって、想念・意
志その他の精神的な活動と呼ばれるものは内在的な現象(結果)なのである。これは容易に受け入れ難い事柄でしょうが、反駁材料をわれわれは知りません。原因(私)と思われていたものが、結果(内在的な現象)であるという認識は、人間としての誇りを打ち砕くものかも知れません。でも、事実であり、真実ならなら受け入れざるを得ません。われわれは虚構の上に乗っかっていても価値はど
うしようもないからです。
脳は均一なひとつのはたらきに限定されたものではなく非常に多くの《野》のはたらきがあり、それぞれが重なり合う部分を持ちながら相互作用しているので、理解を一層困難にしています。われわれは意識する内在的な現象の連鎖に対して心とか精神とかいう実体めいた名称をつけました。心や精神をわれわれの主体であるかのように感じ、思ってしまうのがいわゆる《自由感》と呼ばれるものでしょう。つまり、《自己拘束感》。このような錯覚も脳のはたらきの結果であり、自然の英知は実に巧妙といえるかも知れません。
さて、何故に《意志》というものが特別視されるのかといえば、記憶・知覚・意識などはある程度意志によってどうにでもなるので、この優位性が着目・重要視されるのです。《意志を意志する》というのは変な言い方でしょう。自由意志とは《意志を意志する》ことにほかなりませんが、この牙城を死守せねば道徳的動物としての誇りは消え去ります。
記憶したければ「記憶しておこう」と意志すればよい。見たければ視覚を働かせればよい。意識したければ注意を向け、意識したくなければ注意をそらすように努力すればよい。しかし、意志を思いのままにしたければ、意志そのものの選択が自由=自己原因的でなければならなくなる。意志のはたらきは脳のはたらきによるものだが、それはとてもまずいことである。われわれは脳に対して「これこれこういう事を意志すべし」と指令しているわけではないことを知ってしまっているので、抜け道がどうしても必要です。これは自由意志を肯定する者、および自由意志論者の責務です。