投稿者 中尾達也 日時 2006 年 4 月 19 日 22:29:47:
ー皆様方の御質問の回答が記入されていると思われますので、熟読を!ー
「個人の分析と想念のコントロール(遺稿)」G,アダムスキー氏
求道的な人なら、ほとんど誰でも、人間の向上という点で自分が直面する問題を、時として考え、時々小さな光明を見出しますが、自分と自然との関係や人類との関係の完全な概念をつかむ事はなかなか出来ません。
人間の心はそわそわして急速に結論に達しようとするものですから、現象の奥にある真のバックを見る事が出来ないのです。心が自ら平安を体験するほどに平静な状態になりませんので、宇宙の意識との完全な一体化を得る事が不可能です。貴方がとらねばならぬ最も重要な段階はセルフコントロール(自制)の練習です。心の動きにおいては特にそうです。想念はきわめて急速に心の中を通過しますので、それがコントロールされない場合は暴走する列車に例えてよいでしょう。しかし想念のスピードは列車のスピードどころではありません。これがコントロールされないと自身や他人に大変な危害を与える事になりがちです。機関士は自分の機関車を走らせる機械類を完全にコントロールする必要があります。
さもないと多数の人命が危険にさらされる事になりますので、機関士の責任は重大です。もし彼が一般人と同様にそわそわした短気な状態で行動するならば、列車をコントロールする事の重要さに気ずかないでしょう。人間が自己の想念をコントロールしないとき、自分の気ぜわしい心が他人に対して起こすかもしれない危険に気ずきません。
人間が起こす何かの想念は空間に放射されます。それを制することは出来ません。何故なら、それは絶えず進行し、どこかで具体的な働きを起こすに違いないからです。想念は他の波動に接触する際それに影響を及ぼしますし、又、想念は肉体内に宿っています。それが良き想念ならば肉体内ばかりでなく空間においても多くの有益な働きをし、それが接触する物体すべての内部に調和ある振動を起こします。もしその想念が快いものでなければ、同じ働きが起こるけれども、それは空間で有害な働きをし、そこで類似の性質の事件を自身のほうへ引き寄せ、肉体内に不調和な状態を起こし、平穏な細胞全てを混乱させます。かかる状態でつずく想念は結局は肉体全体をアンバランスにし、その内部に苦痛を引き起こします。
バランスのとれた肉体とは自然のままの安らかな調和した状態にある肉体です。この場合、細胞のすべては各自の仕事を正常に遂行します。この状態にあると肉体は身軽になり、宇宙の意識と一体化します。心身共に健全に成ろうとする人は、自分の想念をコントロールする事を学ばねば成りません。また、想念は強力であって、本人の選び方、次第で建設的な方向にも破壊的な方向にも向けることができる事実を知る必要があります。
時として習慣を打ち破るのはきわめて困難で、これまで暴走させていた利己的な想念は、直接に放射される破壊的想念よりもコントロールするのが困難です。自由意志をもつ人間が自分に最も苦痛を与えるような方向にのみ、その自由意志を応用するというのは奇妙です。時としてこれは他人から同情を得るために故意になされる事があります。また時には他人の注意を引く為にやります。自分がグループの中で際立った人間であると、いうふうに考えて、それが自己のエゴを満足させるからです。
かかる人はそのような、やり方で他人が注目してくれるものではないと、言う事を考慮に入れていません。何故なら意識はえこひいきしないので、誰でも右の(中尾注、前記の)人から受ける影響によって、その人の内心を知ることが出来るからです。
これは勿論本人の個人的なエゴの拡大を阻止します。人間が自分こそ最も重要な存在だと確信する為に、自分で行う行為を通じて、いかに莫大なエネルギーが浪費される事でしょう。虚栄と利己主義という面で自己の存在の強さと力を行使することは本来人間には許されている事ではありません。人間は自己のより大いなる真の自我に対する謙虚な召使いたるべく創られています。
ゆえに人間はこの事実に気ずいて頑固な優越感と尊大さを捨てない限り、万物の創造者である宇宙の意識との正しい関係を確立することは出来ません。かかる自我の虚偽性を排除するのは容易な事ではありません。虚偽性は長いあいだ人類の承認を得てきましたので人間の支配者になっています。しかし貴方が生命界における自己の地位を見出そうとするのならば、自分の利己性を活動の分野に変形させねばなりません。これは少数者ではなく多数者のために有利になるような奉仕の方法を見つける事によって最も容易に成就されます。貴方が他人に対して奉仕を行えば行うほど自分を個人として考えなくなります。人間が自分自身を何かの義務を果たすとめに創造された一経路とのみ みなす事を知り、その義務を果たすことが必要なのでとだけ考え、その奉仕の好機を与えられたことを喜ぶならば、その時本人は父の仕事についている事になります。
その仕事とは何かということになりますが、或る人は大衆にむかって奉仕することに適しているでしょうし、ある人はどこかのひっそりした場所で最も素晴らしい仕事を見つけるかもしれません。そこでは個人的に決して知られる事はないかもしれませんが、自ら姿を現してくる仕事類にたいして非個人的に働く限り、本人は立派に奉仕している事になるのです。
生命の目的は個人的に物事に上達する事ではなく、宇宙的な意味であらゆる行為を統合することにあります。この広大な世界で個人的な思考を保つのを助ける想念なら何でも持続されねばなりません。もし人間がちょっとのあいだ宇宙的な想念を持って、のちに自我へ、その想念をもどすならば、建設的な奉仕の分野に変えられるはずの多くのエネルギーを無駄に拡大する事になります。
各人は人間としての想念を高めるために、自分独自の方法を発見しなけれればなりません。自分自身を研究し自分の心が働く様子を研究しなければなりません。自分の行為と反応とを観察しいかなる想念が自分の肉体内に最も平安な調和ある状態を生じるかを調べる必要が、あります。全く同じ人間は二人といないからです。教師は研究者すべてに普遍的な法則を伝えるでしょう。各人はその法則をそれぞれ異なる方法で応用することです。
各人は生涯において遂行するべき運命をになっています。ある人にとっては、それは恐怖を克服する事であるかも知れませんし或る人にとっては嫉妬心を絶滅する事であるかも知れません。或る人は困難な仕事を行う事によって報いを得るでしょうし、或る人は深い信仰によってそれを得るでしょう。高位の人は謙虚さを学ばねば成りませんし、生来謙虚な人はその柔和な性質を積極的な活動性と結びつける方法を見出さなければ成りません。各人によって方法は少しずつ異なるのです。
人間は先ず自分自身を発見し、次に一個人としての自分の義務を、万物と自分との関係を万物を通じて現われている意識や叡智との一体性を発見しなければなりません。誠実、正直、愛等によって得られる知識と知恵の量は無限です。かかる有益な奉仕の生活に自分を投げ出した場合、いかなる特権が人間に与えられるでしょうか。それは、あらゆる生命との相互関係にあるという広大な概念に通じる真の航路で人生という船をあやつるために人間が成すかも知れない、いかなる努力にも相当するほどの価値があります。その時人間はイエスが言った様に心から言えるのです。「私は父と一体である」と
以上ですが必要な方は書き写して下さい。
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