投稿者 アトム 日時 2000 年 7 月 16 日 18:21:41:
二十歳で宇宙哲学を知ってからその後間を置いて就職しましたが、そこでの人間関
係が今思うと宇宙哲学を生かす場として象徴的でした。この会社では組合活動が盛ん
で、仕事もしないで待遇の改善要求ばかりする風潮がありました。
私も純粋に押し通したのかもしれませんが、そんな職場は伝統で、みんなは別段変
えようと積極的にはしませんでした。そこでそれではよくないと、入って問もない若
者がもっと働いていい汗かこうと言ったものですから、職場では浮いてしまいます。
多くのあつれきを生みました。何が間違っているのだろうか自間自答の日々が続きま
す。想念観察を数取り器を使って、右ポケットと左ポケットに入れて盛んに自分の反
応と全体との調和を見ていきました。みんなと仲良くすることは単なる迎合ではない
んだとか恐怖で人と合わせていることは本当の調和ではないんではないかとか若者な
りに大きな壁に立ち向かったと思います。個人的には分かってくれるけど、どうして
集団の中にあると人は正直になれないのだろうかと思いました。あくまでも人は宇宙
の意識と一体であるはずですからこの意味でもっと正直になれないかと思いました。
習慣とか、伝統がありますが人間として本来持っている意識的な感性に掛けて見たか
ったのです。
個人プレーの出来ない仕事のために協力しあって達成できたときは仕事に喜びを覚
えましたが、当日の気分で全体の仕事が左右されて思うように仕事がはかどらないこ
ともあります。そんなときにやる気を出して、明るく振る舞って自分だけが違う雰囲
気にしていたことがありましたから、ほかの人を思い遣って理解を深める点では欠け
ていたかもしれません。
宇宙哲学を知った結果私が変わった一番のところは人が作ったその集団のルールや
習慣といったものを離れて、自己の内部からわき起こる印象に心が向くようになった
ことと行動もその方向に近くなって活動してきたと思います。しかし、同時に内部か
らの印象は奇妙な働きを持ちました。それは今得た印象はここで受けたことであっ
て、次の出来事には教訓にはなっても絶対的なことではない。いつも新鮮に考え行動
できるようにというものでした。
ある考えを絶対視したときに緊張が起こったりその世界から抜け出せなくなるので
はというものです。一つの基準を設けることはその後の成長に必要なことですが、あ
る点から成長を阻害する要因に成ると思います。それほどに宇宙は大きく多様な表現
を持っていると思います。
次にあげる例は最近私が感じたことです。人を選んで接するという話がありました。
スペース・ピープルは実際に誰かれなくコンタクトする人々ではありません。コンタ
クト出来る人は限られていますが、それで、スペース・ピープルが分裂感を持って
いることを示しているとは思えません。すべての人を平等に眺めて、本当に必要な人
を選んでコンタクトします。
私は人を選ぶことは当然必要と思います。しかし、選ぶという言葉は誤解を招く場
合がありますので、その意味を考えていました。そんなときに電車の中で次のような
事があって気付かされました。夜も11時を回った頃でしょうか、渋谷から山手線に
乗った私は入口反対側の扉に中年の女性が手摺に捕まってこちらを向いている事に気
が付きました。私は吊革に捕まり、右横には背の高い、浅黒い顔に□髭を蓄え眼鏡
をかけた知的な男性が本を読みながら立っていました。女性の人はどこか様子が変で、
あまり関わりたくないと思う想念がわいてきます。そんなとき、隣の男性が彼女に駆
け寄つて肩を抱いて何かを語っています。 「あれこの二人カップルだったのか」
「それにしては似合わないカップルだなあ」と貧困な習慣的考えがわいてきました。
事態はどのような事なのか間もなくわかりました。その女性は体が硬直して必至で
手摺に捕まっている状態だったのです。体の不調は明らかでした。それに、いち早く
気付いたのがこの男性だったのです。新宿で女性と下りて、ホームでうずくまった様
子を私は電車からただ眺めるだけでした。
この出来事に人を選ぶ意味が隠されていないでしょうか? 男性の行動は当然の事
を行なったと思うのです。むしろそれに気付かないところに問題があります。気付か
なかった原因は何だったのでしょうか? 私は次のように思うのです。私も含めて地
球の多くの人は、自分に関心が強くて、自分以外の出来事、結果については自分と分
離したものと捕らえているという事です。それぞれの役割が各自にあり才能が与えら
れていながら、基本的な方向が自分だけを向いているとは言えないでしょうか。全体
ヘの奉仕として自分の力を活用しているとはまだいえません。人を選ぶという事は本
当に必要としているところに必要な人が力を注ぐといういう意味になると思うのです。
その意味で私たちに何が不足しているのでしょうか? 電車の中の出来事でも分か
るように、いかに気付くかの感度の問題になると思うのです。自分にだけ関心の向い
てた心をバランスよく全体にも向けるようになれたならいいのではないでしょうか。
もっとフイーリングを全体にむけて生活する、いわばアンテナを高く受信装置は感度
よく保つ事が必要なのではないかと思います。そのために、意識的にフィーリングを
全体に向けた生活とその中で自分の心の反応を観察する必要があります。このような
小さな出来事でありながら気付かせてくれる体験があるのも宇宙哲学を学んだからだ
と思います。日常がレッスンの場であると思います。私達は肉体を与えられて体験と
いう至福の道を歩んでいると思います。