投稿者 koniyama 日時 1999 年 12 月 18 日 16:30:29:
超能力
超能力はあるないとか、身につける身につけないの話ではなく
気づくか気づかないかだけの話ではないかと私は思っている。
(私はこの問題を自分に関心を引きつけるために
取り上げているわけではない。
そうやって信者を増やそうとするけちな連中もたくさんいるが。)
まえにもどこかで似たような言い回しを使ったが、
宇宙的でなくては超能力は使えないとか、
さとってなくては、超能力は使えないとか、
そういったことはないと思う。
EGOと超能力は矛盾しない。
ごく普通の人は、自分の力をごくごく限定するために
この超能力を最大限に駆使している大超能力者といえる。
私は他の人よりは勘がいいのではと、日ごろ思っていたが、
念力的な力に関しては、ほとんどないと思っていた。
自分はどちらかというとテレパシックなスタンスで考えていた。
しかしある時、雲でも消してみようかと思い立ち
実際にやってみたらなんと消えた。
高度の低い雲のほうがやりやすかった。
高いところの雲はパワーがあるのか、念が届かないのかうまくいかなかった。
あれ?自分の念の力が雲に影響を及ぼすことができるのか。
確かに集中してやると、後でかなり体力を消耗した。
この力のはいらない感覚は、
会議などの後の体力消耗の感覚とどうも同じものであることに気づいた。
どうやら私は打ち合わせなどで
人の考え方を変えるために、
この念力を無意識に使っていたらしい。
雲消しのはなしを友人に面白おかしく話したのだが、
彼女もその気になってやってみたらばんばん消えたという。
だからこれは「超」のつく能力ではどうもないと思う。
私は息抜きにタバコを吸いながら
ほんの一時期、会社の屋上で一人でひそかに実験していたのだが
すぐに飽きてしまった。ほんのひとときは興奮したのだが...
そんなわけで、今はまったくやっていない。
人間の念が自然界に影響を与えることがこの実験でよく分かった。
ある意味で、あらゆる人はこの念の力を無意識に行使している
こともよくわかった。
これはテレパシーの範疇にはいるが、
ある問題をしばらく考えていると、
朝おきたときにふと解答がひらめくようなことがある。
実際こんなことは誰にでもある話だ。
自分の場合の例でいくと、
人間がこの時期になぜ能力が目覚めてくるかについて
原因を考えていたときのことであった。
静かにひらめいた印象は、
「これから起こる変化を乗り越えるために必要なので
自然が人間に対して与えるのだ」ということだった。
こんな風に宇宙的な問題だと宇宙的な印象がやってきて
いわゆるテレパシーという雰囲気がだんぜん盛り上がる。
でもその内容が仕事のことでも、趣味のことでも、
なんであっても、
本質はテレパシー的なものであることには変わりはない。
私は最近気づいたのだが、
自分と仕事などで「懇意に関わった人」は
どうも運がいい方向になったりするようだ。
これは決して自慢で言うのではない。
自分としてはどうも納得できないところもある。
私は仕事上自分とやっていると
絶対悪い方向にはいかないから安心しろと
もう最近ではそのままストレート言ってしまったりする。
きっと変なやつかもしれない。
確かに最悪な事態になるようなことにはならないから不思議だ。
これも一種の念力なのか、
それともそういう人だけが引き寄せられるのか。
よく分からないところだ。
だが、念力の作用として考えてみたら
これは何の報いを求めない奉仕にもなることに気づいた。
まずなんだかんだと労力がいらない。
そもそも相手は何も分からないのだから。
口約束するわけでもないので、責任をとる必要もない。
きっと何らかの作用を、私が念で植え付けているのかもしれない。
ならばなんでもっと自分がなどと思うのだが、
私自身もトータルで考えるとやはり最悪のことは起こらず
つねにいい方向へゆっくりと進んでいる。
自分が必要な分だけは
タイミング良く必ず与えられているといえる。
それが周囲に反映するのかもしれない。
人間は自分のもっているところでのみ奉仕できる。
自分が不幸なら、他人を幸せにするという発想すらおこらないだろう。
自分が真に貧乏人なら、他人が豊かになるのを許せないだろう。
私は他人が幸せになる超能力こそが本当の超能力であると思う。
私は大変に地味だがこれを目指そうと思っている。
自分の接する範囲で一生実行していけるしまず無理がない。
実行といってもただそう確信するだけなので、
結果は見届けられないし、科学的な証明もできない。
きっと誰も気づかないだろう...
ただ残る課題がある。
それは「懇意でないひと」の場合の問題だ。
私は、まだ「懇意でないひと」を
この範疇に入れられないでいる。