投稿者 プラム 日時 1999 年 12 月 22 日 11:58:13:
回答先: 楽しいかもしれない 投稿者 スターダスト 日時 1999 年 12 月 20 日 21:01:58:
紀元前3世紀の後半、
旧約聖書の時代もそろそろ終わりに近づこうとするころ、
古代ヘブライに一人の「知者」が現れました。
“コーヘレト”
自らをそのようなペンネームで呼んだ彼は
『旧約聖書』の中の知恵文学のひとつ
「伝道の書」を記しました。
そしてその書を記した彼は、エリヤ、アモス、エレミヤなどに
代表されるような「預言者」ではなく、
あくまでも知恵を持った者、「知者」でした。
その「預言者」と「知者」との違いは何か?
(かなり大まかな分け方ですが。)
「知者」コーヘレトは、
権力を自由にできる地位であることを
人々に向かって語りながら、
その権力の下で虐げられている無力な人たちについては、
現実を解説するだけで、
実際に力を持つ者として、彼らの悩み苦しみを解消するには
どうしたらよいのかという問題については、全く触れませんでした。
それとは対照的に、各時代の「預言者」たちは、
その無力な人々の、人間としての“権利”や“尊厳”を擁護するために
身の危険を冒してでも、
あえて権力者に訴え、
彼らを虐げる者たちを激しく弾劾し続けました。
そしてコーヘレトは
その社会の不義や不正を是正できる立場にありながらも
「傍観者」であり続けました。
彼はこの世の不条理さを語りながらも、
その話は自分の体験ではなく、
すべては知識で得た他人の話なのでした。
そのコーヘレトが、誰しもが経験する普遍性をもった
「時」について語った箇所があります。
人生のさまざまな断片と
その瞬間を支える「時」ついて語るコーヘレト。
スターダストさんの気になっている
詩の部分はたぶんここのことではないかと思います。
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伝道の書 第3章
天が下のすべての事には季節があり、
すべてのわざには時がある。
生まるるに時があり、死ぬるに時があり、
植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
殺すに時があり、いやすに時があり、
こわすに時があり、建てるに時があり、
泣くに時があり、笑うに時があり、
悲しむに時があり、踊るに時があり、
石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、
抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
捜すに時があり、失うに時があり、
保つに時があり、捨てるに時があり、
裂くに時があり、縫うに時があり、
黙るに時があり、語るに時があり、
愛するに時があり、憎むに時があり、
戦うに時があり、和らぐに時がある。
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この聖書の箇所は
私も特に好きなところです。
プラムは高校1年のときに書店で
「UFOコンタクティー」誌104号を見つけて、
初めて宇宙哲学に出合いました。
その号の中に、
イエスは地球人に愛の法則を伝えるために
金星から地球へ転生してきたのだという
箇所がありました。
「え〜っ!」
そしてすぐに本屋で『新約聖書』を買い求め、
毎晩、3ヶ月以上かかって通読しました。
でも、何が書いてあるのかサッパリわからん。
もう一度読んでもやっぱりわからん。
『新約聖書』の概要を理解するにはどうしたらよいかと考え、
その2年後、「家には拝み屋はいらない」と
大反対する両親を泣き落としで説得し、
プロテスタント系の学校へ進学しました。
そこで少しだけ聖書を学びました。
アダムスキー氏の遺した言葉を理解するためには
聖書の勉強も必要だと当時の私は考えていました。
実際には「新約」よりも「旧約」聖書のほうが
私にとっては面白くて、
卒論も「旧約」聖書から題材をとったものでした。
旧約聖書には
面白い話がいっぱいあります。
「ノアの箱船」のノアも
「義人」といわれていますが、
箱船をおりた後、ブドウ園の農夫になって、
ワインを飲んで酔いつぶれて、
裸のまま眠ってしまいました。
そこに息子が登場し、
「み〜た〜な〜」と言って息子を恨むシーンも
あります。
(きちんとした聖書的解釈ももちろんありますが)
スターダストさん、再度聖書を入手しましたか?
興味を持たれた方は、手にとってみてくださいね。
プラム