投稿者 koniyama 日時 1999 年 12 月 26 日 01:13:53:
愛とは何だろう
未熟者の私には、これが愛だという明確な説明はできない。
でも可能な限り宇宙哲学してみたい。
まず、私の大前提。
自分が不幸せで苦しんでいるのに
さらに他の人を愛することができるのだろうか。
私にはとてもできない。そんな余裕はないだろう。
きっと自分を維持するので精一杯であろう。
まずは、自分がどこかで幸せにならないと。
無い物はやはりどう考えてもあたえられない。
知識も、技術も身にあってはじめて提供できる。
ではどうしたら自分は幸せになり、
愛を供給できるのだろうか?
でも愛は供給しようとして、供給するものなのだろうか?
報いをもとめる愛
自分として報いとか、フィードバックをまったく期待していない行為、
想念であるならきっと愛といえるのではないか。
ところがどうも愛する行為の結果を期待してしまう。
愛を与えたことによって、相手が幸せになることを期待してしまう。
これも報いをもとめているから愛ではない。
愛によって自分が進歩するという動機でいくと、
またそれが報いを期待していることになるから、真の愛ではなくなる。
では愛とはいったいなんなのか。それはどこから来るものなのか。
自然とあふれるもの?
自分から無理矢理ひねり出した想念が、
愛になるとはどうも考えられない。
なにか自分の中から自然に意図なく出てきてしまうのが愛なのではと思う。
たとえば夜おそく仕事から帰って、ほっとしたところで、
眠りについている子供たちの姿をそっと見るときに
自然にあふれてくる暖かいものなどがもしかしたら愛なのではないか。
別に言葉を交わす必要もない。
子供たちに自分の気持ちが伝わらなくても別にいい。
愛の実務性
ただ人を救えばいいというものでも、
ただ闇雲に人を愛せばいいというのではないと思う。
またこれは想念の上だけでの問題でもないと思う。
必要なときに必要なものを提供することができるか、
ということも愛にからんでくる問題だ。
私はあなたを愛しています。でも私は無力です。
これは愛になるだろうか。
喉の渇きから水を求めているものに、
愛の想念を向けたところで何にもならない。
まずは水を調達することを考えなくてはならない。
提供する立場の人がその時に愛とかなんとか別に考えていなくても
なんとか提供しようとする努力、行為全体が
全体的な視野から見ると「愛」そのものになるのではないか。
SEXと愛
学校教育でもここらへんがおかしくなっているみたいだが、
これは間違えて子供を作られるとやっかいだから、方便として使われている。
SEX=愛の行為ということは不自然だ。
愛がなければSEXしてはいけないなどということはない。
夫婦生活においても、
SEXはあくまでSEXである。やりたくなるからやるというものだ。
いちいち自分に愛があるかどうかチェックしてSEXするわけではない。
人類を存続させようとする、遺伝子の本能が強制的に突き動かすのか?
でも、そこにまったく愛がないかというとそうでもない。
全体として愛がどこかにある。どうもややこしい。
愛も鬼になる?
子供を持つとわかるのだが、
本気で怒らなくてはならないときもある。
そんな時は鬼になりきらなくてはならない。
特に生命に関わることなどは、
親としての立場上、にこにこしながら怒るわけにはいかない。
ときにはげんこつをくわわせなくてはならない。
そんな行為だけをみて、そこに愛がないとは言えない。
ただやさしくすることだけが子供への親の愛ではない。
親がしっかりしないと、
子供は将来自己統制する部分を自分の中に構築しないまま
大人になってしまうであろう。
神は愛である
一気に結論に走る。
宇宙人には、本当の愛を地球人は知らないと言われちゃいそうだ。
愛は人間が作り出したものではない...ということだけは
雰囲気でなんとなくわかるような気がする。
人間を通して、神の愛がでてくるというイメージ。
久保田氏が教えられた、
自分を通して現れている神の愛を愛します
という思念は大変にすばらしいものがあると思う。
この思念は神と直接の経路を開くのではないだろうか。
神が創造したものに感謝することも、
神と直接の経路を開くことになると思う。
だから、こうした思念をした上で、願い事を念じたり、
イメージすると効果的と思う。