投稿者 ラピス 日時 2000 年 1 月 27 日 16:16:56:
息子がおもちゃのバイクごと、見事に階段から落ちまして、右手首を骨折しました。
昨日、病院にて簡単な手術を施され、腕をギプスで固められております。
この数日、そんな息子と向かい合いながら、自分の意識が様々に変化する様を感じていました。
当初、痛くて泣叫ぶ息子に対して、「痛みをやわらげてあげたい。できることなら治してあげたい。」と一心に祈っていました。
私自身、骨折の経験がありますので、彼の受ける痛みや不安は手にとるように解りました。
手術中、待合所でずっと祈り続けていました。
「彼の痛みがやわらぎますように。彼の心の痛みがやわらぎますように。」
何かの拍子に、「彼の経験、私の経験」という思いが涌き上がってきました。
彼の経験は「痛いこと、辛いこと」でしょう。あたりまえですね。では、これを私の経験とするなら?
アイリーン・キャディの本の一節が浮かんできました。
「すべては『良きこと』のために」
起こる現実はすべて「中立」であり、肯定的な意味を与えることも否定的な意味を与えることもできる。
すべてが完璧であるとするなら、必要、必然であるとするなら…。
私は「神の視点」を思ってみました。
神ならどう捉えるのだろう。
すべてが完璧であると知っている、神なら…。
次の瞬間、私は息子も私も完璧であるという思いに包まれていました。
息子に生じている状況が私に伝えてくれているのは、それはなんら心を傷めるものではなく、ただ、彼の完全性を「信頼」するためのものなのだ、と。
私は深い平穏に包まれ、手術が終了するまでの時間、ただただ、彼の完全性を感じながら、心静かに座していました。
泣きながら手術室から出て来た彼を、しっかりと抱き締めて、「がんばったね」と頬擦りしました。
彼の痛みや苦しみに同調することもできます。そして同調しないことも選べるんですね。
母親が自分の子供の苦しみに同調するのはよくあることですが(私にとっても)、今回の出来事では「もうひとつの視点」を知ることとなりました。
私事ですみません。読んでくださって、どうもありがとう。