投稿者 スターダスト 日時 2000 年 2 月 13 日 21:45:53:
かつて
「意識と一体であると唱えよ」
と野太い想念が湧き起こったとき
それは私の喉と口を使って
音声になりました。
私、たいそう驚きました。
あとにもさきにも
具体的な日常言語による
明確な啓示はそれっきりです。
当時の心の状態を考えると
とても私自身が
クリアに、「生命と一体化」
していたわけではありませんので、
自分の力でそれを
拾ったのではないと思います。
それいらい
あれは
なんだったのだろうと
ときどき思います。
具体的な日常言語が
幻聴的に聞こえたり
することはありません。
そのときは
自分の声を
自分の耳で聞いて
驚きました。
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私に浮かんでくるのは
「思い付き」です。
「想念の芽」です。
あるいは
「偶然」です。
よほど調子の良い日では
「正解!」
と思う気付きが
連発して50発くらい思い付くことも
あります。
無関係なことをしているときに
突然、思い浮かぶから
ときどきあわてます。
お茶してる作曲家が
突然に良いメロディーが浮かんできて
ナプキンに♪を書くのと似ています。
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こうした想念の「芽」は
たちどころに
私の心と反応して
一連の想念として組み立てられます。
したがって
私は
私の心の、、良い管理人に
なっていなければなりません。
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あるときは、「芽」は
具体的な言葉に成長します。
あるときには「芽」は
映像になります。
あるときには「芽」は
楽しい気分をもたらします。
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いずれにせよ
想念の「芽」は
私の心というフィルターを通過します。
具体的な表現は
私の心の中で組み立てられています。
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心によるフィルタリングが不適切で
あれば、
とんでもないことになります。
エゴを拡大させる
幻惑には、注意しなければなりません。
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ところで、こういったことは
チャネリングなのでしょうか?
私にはわかりません。
強いて言うと
【「意識と一体である」と唱えよ】
と
私の口をついて出てきた、
あの一回こっきりの体験こそ
チャネリングでした。
私は、自分自身の心以外から
もたらされた、
その、野太いパワーに
感謝しています。
その声の主は
神様ではないと思います。
変な霊体とか、そういうものでも
ありません。(キッパリ)
その声の主がなんであるのかは
追求しません。
保留。
考えない。
今はね。(笑)
ありがとう。