投稿者 yoshimi 日時 2001 年 1 月 20 日 22:38:49:
回答先: Re: アドヴァイス 投稿者 オープン・マインド 日時 2001 年 1 月 19 日 03:36:46:
ありがとうございます。
具体的に、示していただいてありがとうございます。
|> (1)精神的自立
||> 簡単に言うと「あなたがあなた自身の先生であり生徒であれ」という事なんです。
|> 例えば機械の操作を覚えるときは単に記憶することが出きれば事足りるわけですが、こういった真理や哲学に関する学びには特に「理解」というものが重要になります。というか、この「理解」が全てと言っても過言ではありません。そしてこの「理解」については、偏(ひとえ)に個人個人一人一人にかかっているのです。
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*理解、私の理解は、いつも記憶して覚えて、応用する事でした。
こちらのサイトをしったおかげで、「理解」する事は、そのようなものではないという事を理解出来ました。
|> また先に言ったように、他人を師とか権威と見てはいけません。なぜかというと、そうした見方は相手への「依存心」を生んでしまうからです。依存心があると、人は必ずそれを頼りそれに囚われてしまうのです。
|> 依存がある所には必ず「恐怖」が伴います。なぜならその依存先が無くなった時、その後どうしていいのか判断がつかず途方に暮れてしまい、自分を見失ってしまう恐怖が起こるからです。しかし、そうであってはいけないし、私達は誰もが精神的に完全に自立する必要があるのです。私達が頼るべきなのは他人や権威ではなく自分自身です。私達の意識は宇宙の意識と繋がっていますから、それを師とすればいいのです。その現れが気付きや洞察などの「理解力」なのです。
|> 以上で解ってもらえると思いますが、あなたを導く事が出きるのはあなたの「理解力」だけなのです。いくら他人がどれほど素晴らしいことを教えたとしても、あなた自身が理解できなければ何にもならないのです。私達は誰もが生徒だと言いましたが、その生徒を導くのは自分自身の「理解力」であり、それが先生であるわけです。よって「あなたがあなた自身の先生であり生徒」であらねばならないわけなのです。
*「依存心」確かにそうです。
私の「過去への執着」も依存した生活を忘れられないからかもしれません。
|> 私達は同じ仲間として自分の学んだ事をアドヴァイスしあって学んでいく事が出来ます。それを分かち合う事は大切です。しかし、いずれにせよ根本的な理解は個人にかかっているということなんです。
また、自己観察に関しても日常の自分の反応を全て見つめるわけですから、自分自身にかかっています。結局、周りの人間は気付きや理解の「きっかけ」を与えられるに過ぎません。それを活かせるかどうかは常に自分次第だということなのです。我々は誰もが平等で自由な人間ですが、そこに師弟関係や権威を持ちこむと平等や自由は空洞化してしまいます。平等や自由は精神的な自立がある所にのみ存在できる事を理解してください。
*「基本的な理解は自分にかかっている」この意味を具体的に解りやすくアドバイス頂き、有り難うございます。よくわかりました。
|> (2)変革を目的化しない
|> 〉ですから今、「自分自身を知れ」という言葉の意味を理解する事すらできず、「自分自身を知る」事の難しさを感じています
|> 自分自身を知るというのはそんなに簡単なことではありません。特に始めたばかりでは、5分と経たないうちに自己観察を忘れてしまうものです。しかし、難しくはありますが出来ないというものでもありません。まず、自己観察を一生続けて自分を理解していこうという意欲を持つ事です。決心ではないですよ。「必要だからやる」という意欲です。何度でも何度でも諦めずトライしてください。疲れた時は休んでも構いません。それを義務付けて自分を縛ってはいけませんよ。部屋が汚れたら掃除が必要です。それと同じ様に、忘れても忘れても思い出すたびに実行する事です。
|> また、最初は自分が自己観察を中々実行できない、ということから気付いていってください。私達は今までの習慣的な考え方や行動が染み付いていますから、その習慣から切り替える事は容易ではありません。糸口は「自分は自己観察も簡単に出来ないほど、習慣に縛られている」と気付く所から入っていきましょう。それに気づくことも一つの自分の理解なのです。そのことにくり返し気付くことで、徐々に自己観察が容易になっていくと思います。
|> 〉この質問を送信して、読み返していたときに、まだまだ、過去に執着している自分に気が付きました。ごめんなさい。
|> ほらほら、そんなことで謝る必要はありませんよ。自分で気がついたのならとても素晴らしい事です。自己観察はそのくり返しなのですから、しっかりと心得てください。
|> ところで、自己観察をする時は必ず次の事に気をつけてください。
|> @ 自己の変革を目的や目標にしない
|> A 観察しているものを批評や正当化や修正したりしない
|> これはどういう事かというと、「自己観察をするのは自己観察自体が目的である」ということです。
|> 自己観察は自分を「変革するため」の手段ではありません。自分自身を知るための手段だということです。今の世の中は手段と目的を分離してしまい、目的を達成するために手段があると思っています。でも、それがこの世の中に不幸をもたらす原因の一つなのです。
|> 例えば、スポーツは勝つという目的や結果を求めるのが当たり前ですが、いざ結果を求め始めると勝敗にばかり気を取られてしまい、スポーツ自体を楽しめなくなってしまうのです。勝つ時は気分いいでしょう。しかし、もし負けてばかりで結果が出せなければ、自分自身にイライラし情けない自分が嫌になるのではないでしょうか。目的や結果を求める事は焦りに繋がり、結局自分を否定する事に繋がってしまうのです。それがまた、人々を精神的に追いこんだり病いを導いたりします。ですから、スポーツではプレイ自体を楽しむように、自己観察は自己観察自体が目的であるべきなのです。
|> また、批評や正当化は、同様に結果を求める所から出てきます。例えば何かに怒った時に「怒ってはいけない」と思うのは、「怒らない人間になる」という「結果」を追い求めているために出てくるわけです。ですから、自己観察中に気付いた自分の姿がいかに許せないものだったり恥ずかしいものだとしても、それを批判したり正当化したり、はたまた無理やり修正しようとしたりしてはいけないのです。失敗をことさら悪く思う精神も、成功という「結果」を追い求める所から出てくるのですよ。
|> 自己観察は、今存在する自分の“ありのままの姿”を知るために行います。私達が日常に起こす考え方や反応、あらゆる言動や行為、自分の身体で起こる全ての事がそのまま自分であるわけです。そのありのままの自分を刻一刻に黙々と見つめ続けるのが自己観察です。自己観察自体は自分の姿を“ありのままに”知るために行うものであって、批判や修正を施してはありのままに知る事になりませんからそれをする必要はないのです。またそれは、思考や観念によっては変革を促す事は出来ない、という事でもあります。この辺の説明は複雑になるので省きますが、批判や修正によって“結果を求める”気持ちは全て過去に植え付けられた観念や思考法によるものなので、それによっては変革は行えない事だけ知っておいてください。
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|> 少々長くなりましたが、自己観察を行う上で以上の事は最低限知っておくべきだと思いアドヴァイスさせていただきます。自己観察は日常に起こす自分自身の全ての反応を“じっと見つめる”ことなのです。見つめるだけでいいんですよ。
|> これははっきり言って亀の歩みです。もしかしたら亀より遅いかもしれません。でも確実に一歩ずつでも進むべきではないでしょうか。これは世の中の他のどんな事よりも価値があることなのですから。
|> ここに書いた事で疑問があれば質問下さい。すぐにという訳にはいきませんが必ず返答します。では。
*何度も読み返しました。こんなのでいいのだろうか、こんなはずじゃないはずだと、
今までの慣習から、自分を観察したり、意識をニュートラルにするということを意識しながら目的として良い結果を求めていたのですね。
あせらず、ゆっくり・・・続けていきます。今自分を観察することが、目的ということ理解できました