投稿者 yoshimi 日時 2001 年 3 月 17 日 02:24:51:
回答先: 交換日記 to yoshimiさん 投稿者 らむじ 日時 2001 年 3 月 16 日 20:22:11:
|> * なるほど、ムー文明となにか関係がありそうですね。
★う〜ん!!
何かトンチンカンを言いそうなので・・控えます。
|> * 「キャベツ入りのハンバ−グを今まで食べて事のない人は
|> 半分死んでいたようなものだ。」とフランスの哲学者が言ったとか
|> 言わないとか・・・^^ゞ
★早速キャベツ買ってきました(^^)
|> * 今日、買い物の帰り私が見た光景は、人生とは何か、ということを
|> 考えさせられるものでした。
|> 幼稚園児(女子)が目のご不自由なお父さんの手を引いて向うから
|> 歩いてきた。ふと見ると、その後ろからお父さんの肩に手を掛けながら
|> 目のご不自由なお母さんも一緒に歩いてくる。歩道が狭かったので
|> 私は立ち止まり、彼らの通行を邪魔しないように道の端によけた。
|> 通り過ぎる親子を見ていると、三人ともとても楽しそうだった。
|> そして女の子はとても誇らしげな顔をしていた。
|> あの幼子は、これからもずっと両親の目となって立派な奉仕を
|> していくんだね。偉大な幼子の前で私は自分の存在がちっぽけな
|> ものに感じられました。真の奉仕とはなにか・・・・・
私の家族は、父と私以外は、先天性の網膜色素欠損症という、加齢や紫外線で視力低下する病気をもっています。
アダムスキーを知って感じたのだけれど、視力に頼らず生きていく術を身につけるよう創造主から選ばれたのではないかと・・そうはいっても加齢とともに視力低下、視野狭窄がすすむ兄弟たちの事を思うとこの世の中で生活する不自由さを思い絶望的な気持ちになります。(当事者はもちろん)
しかし、最近は、もしかして、意識を中心に生きていけば、視力が低下している事を意識せずに生きられるようになる可能性があるのではないかと(すみません表現が下手で)感じます。
しかし、その教えに接することがなければ、ただ嘆き、恐怖と背中あわせになってしまう
奉仕は、アダムスキー哲学を広く世にひろめる事なんじゃないかなと感じました。
どんなに楽しそうにみえても、突然おそってくる恐怖がハンディを持ったものには健常者に比べ多いとおもうのです。だけど、精神的に自立していれば、恐怖から解放されると・・・・
だれもが、意識体としてよりよく、今を生きていくために広めていくのが奉仕なのでは(実際、母の40代後半から急激な視力低下の恐怖を軽くしたのは、信心でした)
らむじさんの慈愛で、こうやって学ぶきっかけを与えてもらっている・・・これこそ真の奉仕ではないかとといつも慈愛を感じながら生活してます。
<一年生が、支離滅裂な表現でごめんなさい、まとはずれだったら許して下さいネ>