投稿者 純 日時 2002 年 8 月 16 日 00:34:11:
終戦記念日はいつも、肉体の衰えゆく戦災体験者と、生命力が萌えさかる思春期の若者たちとが歩み寄る時でもあります。
社会に組み込まれている大人たちは、自分が自由で、適度の娯楽もあり、TVなどで情報を収集でき、ある程度社会に貢献し、苦労をしながらも、自分の生活を保っていると思っています。実は自分が刑務所の中にいるとも知らずに。
地球は学校に例えれば問題児の集められた特別なクラスのようですが、
それは同時に多様さを理解するための修行の場、宇宙の実験場とも言われます。
でも、学校全体を改革する鍵は、この問題児クラスが握っているはず。成績の悪い仲間を軽蔑する生徒は学級会長には向きませんし、優等生のエリート教師も担任には向きません。
この問題児クラス(地球)に愛と平和を実現できずに、卒業して一流大学(優等生惑星)へ行ったところで、それがナンボのモノなのでしょう。イエスは山にこもらず、町に出向いて人々と交わりました。
原爆は、私の母の大切な優しい兄の命を一瞬にして長崎の地から消し去りました。その日の空が曇っていなければ被爆地であったはずの小倉には当時私の父がいました。その父と母が出会い、広島に生を受けた僕は今、ちっぽけながらも、世界平和に貢献する市民団体をしています。
若者たちに限らず、大人たちも、なぜ自分が地球に生を受けたのか、その答えを外部に頼ってコントロールされるのではなく、自分自身に内在する意識の声に耳を傾け、自立して歩みださなければ、また多くの涙が流される未来が来てしまうかもしれません。自分の使命に対する謙虚さは、創造主への傲慢な態度です。
よろめいても、つまづいても、何とか前進をつづけたいものです。
何度も道に迷うことが許されるほど、人生は長くはないのですから。