投稿者 スターダスト 日時 2006 年 7 月 12 日 18:43:59:
中村元訳『ブッダのことば』(岩波文庫)には、最古層の経典、スッタ・ニパータからの訳が掲載されています。釈尊の教えは様々に脚色され歪められ多くの仏典を生み出す母体になりましたが、多くの研究の結果、最も古く最も釈尊の言葉に近い経典のひとつとしてスッタ・ニパータは注目せざるをえません。脚色や歪曲、挿入が比較的に少ないと期待されているからです。
さて、スッタ・ニパータをよりどころにして釈尊の語った法の一部を拾い出したいと思います。
釈尊は、当時の厳しい身分制度を否定しつつ本当に優れた者とはどういう者なのかを諭します。まず、最上位階級であるバラモン階級とは名前だけの価値しかなく、人の価値を決めるのは本人の行動によるのだと説明します。生まれによって階級が自動的に決められるバラモンには価値を見出さないというわけです。なおバラモン階級は神々に近い階級でした。実はインドに侵入してきた支配民族がその階級を名乗ったのです。釈尊は次のように騙ります。
『六一一 身を稟(う)けたいきものの間ではそれぞれ区別があるが、人間のあいだではこの区別は存在しない。人間のあいだで区別表示が説かれるのは、ただ名称によるのみ』
『六五〇 生れによって<バラモン>となるのではない。生れによって<バラモンならざる者>となるのでもない。行為によって<バラモン>なのである。行為によって<バラモンならざる者>なのである。』
『六五四 世の中は行為によって成り立ち、人々は行為によって成り立つ。生きとし生ける者は業(行為)に束縛されている。−−−−進み行く車が軛(くびき)に結ばれているように。』
続いて釈尊はまとめとして、軛につながれぬ自由な車となる為の方法を説きます。その実施者こそが<バラモン>であると説きます。一番大事なところでしょう。
『六五五 熱心な修行と清らかな行いと感官の制御と自制と、−−−−これによって<バラモン>となる。これが最上のバラモンの境地である。』
これはまさしく宇宙の法則であって、アダムスキーが熱心に唱え続けた教えと全く同一であることがわかります。感覚器官のコントロール!釈尊の上の言葉における「業」とは後世の肥大化した解説による「いわゆる」カルマではなく、真のカルマ、私達がセンスマインドに振り回されている状況を指しています。
以上は、釈尊がスペースプログラムの中でどのような位置付けであったのかを推察するための一資料であると同時に、アダムスキー哲学の方法論が数千年前から地球にもたらさられていることの例証として、掲げてみました。
ともすると超常的なことがらに目がいきがちですが、本当のところ、一番重要視しなくてはいけないこととして「想念観察」があるのだとあらためて考えてみることとしたいと思っております。
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「進み行く車が軛(くびき)に結ばれているように。」で連想いたしましたが、車とそれを牽くものとを逆転させた詩があります。
心の中の思いが 私たちを創っている
私たちは 自分の思いによって創り上げられている
私たちの心が邪悪な思いで満ちているとき
私たちには いつも痛みがつきまとう
雄牛を悩ます荷馬車のようにして
もし私たちが清い思いばかりをめぐらしたなら
私たちには喜びばかりがつくまとう
私たち自身の影のようにして
ジェームズ・アレン
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