肉体的な衝動や気まぐれな感情、欲望、そして様々な
物理的体験の中に浸りつづけ、
それらを自分自身の不変な一部だと考えているかぎり、
永遠の生命に関するいかなる知識も手にできない。
永遠の生命は、いま、ここに存在している。それは、多くの人々が想像しているような、墓のむこう側にあるものでは決してない。
永遠の生命は、いま、ここで人間の意識によって、明確にとらえられるものであり、その中では、肉体的な衝動や欲望、不安、動揺、および、外側の人生内のあらゆる状況や出来事が、単に足早に通り過ぎていく、幻想にも等しいものとして眺められることになる。
永遠の生命は時間に縛られない。それは、まさしく永遠であるからだ。それは、時間がいま、ここに存在するように、いま、ここに存在している。そして人間は、時間に縛られたもの……いずれは消え去る運命にあるもの……にしがみついている「低次の自我」を克服したとき、永遠の生命を発見し、それを自覚できる。
肉体的な衝動や気まぐれな感情、欲望、そして、すぐに過ぎ去っていく様々な物理的体験の中に浸り続け、それらを自分自身の不変の一部だと考えているかぎり、人間は、永遠の生命に関するいかなる知識も手にできない。多くの人々が永遠の生命だと考えて入手を願っているのものは、目の前の、外側の、世俗的な人生の永遠に他ならない。
つまり、彼らは、時間に縛られた目の前の人生で手にしている世俗的な喜びの源を、以後も延々と手にし続けたいと願っているのである。彼らは、その種の喜びのなかで生き、それを愛し、それにしがみついて生きている。
その一方で彼らは、これまで自分の欠かせない一部だと考え、進んで奴隷となってきた、その種の喜び源を、いずれ自分は手放さなくてはならない、という事実も認識しており、それを意識の中から必死になって排除しようと努めている。
永遠の生命を持つ人間は、不動の
決して変化することのない意識のなかに上昇することで、
自分自身を、時間に縛られているあらゆるものから
切り離すことができる。
外側の人生は、永遠性からは最も遠いものであり、その中に浸りきることは、魂を死に追いやることにも等しい行為である。変化と無常こそが、外側の人生の本質であるからだ。それは、言うなれば、様々な誕生と死のくり返しに他ならないのである。
この世界の魂の多くは、それを宿している肉体とともに、未熟な意識が創り出している、短い、熱にうなされたような人生のなかで、変化と死の運命に浸って生きている。
永遠の生命は、肉体の死によってもたらされるものなどでは決してない。世俗的な喜びの永続を願う、死すべき運命の人間は、死んだ後でも、なおも死すべき運命にある。彼は、次の人生においても、過去の記憶も未来に関する知識も持たないまま、明確な始まりと終わり(誕生と死)を体験することになる。
永遠の生命を持つ人間は、不動の決して変化することのない意識の中に上昇することで、自分自身を、時間に縛られているあらゆるものから切り離した人間であり、過ぎ去っていく出来事や、世俗的な衝動、気まぐれな感情、欲望などによる影響を、決して受けることがない。
永遠の生命を持つ人間は
常に変化を続ける世俗的な出来事の流れから一歩退き、
不動の場所に立って、それを穏やかに眺めている。
人間の生涯は、常に変化を続ける、いくつもの出来事の流れである。そして、死すべき運命の人間は、その流れに身を任せ、あてどもなく漂っているだけの人間であり、そのために、自分の前方と後方に何が存在するのかを、まったく知らないでいる。
一方、永遠の生命をもつ人間は、その世俗的な流れから一歩退き、不動の場所に立って、それを穏やかに眺めている。そうやって彼は、自分の前方と後方にも目をやりながら、それらの間にあって動きつづけている目の前の人生を、静かに観察している。
いまや彼は、低次の自我が創り出す衝動や欲望および、時間に縛られた人生を構成する外側の変化の数々を、自分と同一視したりは決してしていない。
いまや彼は、彼自身の行き先はもとより、他の人々や世界全体の行き先の冷静な観察者にもなっている。
永遠の生命を持つ人間は、
世俗的な人生という夢からしっかりと目覚め、
夢というものが持続的な現実なのではなく、
通り過ぎていく幻想に他ならないものであることを、
知っている人間である。
死すべき運命にある人間は、いわば、夢に捕らえられている人間である。彼は、かつて自分が目覚めていたことも、やがて目覚めるであろうことも知らないでいる。
彼は、生命に関する真の知識を持たずに、目の前の世俗的な人生をいう夢を見続けているだけの人間である。
一方、永遠の生命を持つ人間は、その夢からしっかりと目覚め、夢というものが持続的な現実などではなく、通り過ぎていく幻想に他ならないものであることを、知っている人間である。
彼は、目の前の人生と、永遠の生命の双方に関する知識をしっかりと持っており、自分自身を見事に管理しつつ生きている。
永遠の生命を持つ人間は、いかなる変換に直面しても、
決して動じる事がなく、常に穏やかである。
死すべき運命にある人間は、時間のなかで、つまり、始まりと終わりとを持つ世俗的な意識のなかで生きているが、永遠の生命を持つ人間は、宇宙的、あるいは天国的な意識の中で生きており、その中には、始まりも終わりもなく、あるのは「永遠のいま」のみである。
彼は、いかなる変化に直面しても、決して動じることがなく、常に穏やかであり、彼が肉体の死を迎えたとしても、それによって、彼が住み着いている永遠の意識が混乱をきたすことは、絶対にありえない。
永遠の生命を持つ人間は、たとえ肉体が滅びたとしても、決して死を味あうことがないまま、次の人生へと歩みを進める。そしてそれは、彼が死すべき運命の流れから足を踏み出し、自分自身を、<<真理>>という住居の中に住まわせているからである。
肉体、低次の自我、国、そして周囲の世界は、やがて消え去る運命にある。しかし、<<真理>>は決して消え去ることがなく、その栄光は、いくら時間がたっても薄れることさえない。
永遠の生命を持つ人間とは、自我を見事に統治している人間である。彼はもはや、自分自身を、利己的な追及にむけられた自我のパワーとは同一視したりしてはおらず、そのパワーを正しく導き、それを、「万物の源」との調和に満ちた活動へと向けている。彼の人生の中には、もはや、人生の苦悩も熱病も、疑いも、恐れも存在していない。
心を永遠普遍の<<真理>>に同調させたとき、人間は、真の生命の永遠に色あせることのない栄光を知り、そのときから、彼にとっては、死などというものは、もはやどこにも存在しないものとなる。