自我滅却の意味するものは、
「心の中から、分離や不和、苦悩、病気につながる、
あらゆる要素を排除することに他ならない。
とても多くの人々が、「自我の克服」という教えに対する、混乱と誤りに満ちた解釈を行っている。
「自我滅却」とも表現されるこの概念を、ある人々(特に理論に走りがちな知識人たち)は、現実の人生から遊離した形而上学的理論だと結論づけ、別のある人々は、人生からあらゆる活力を奪い去る行為である、と指摘している。
そういった謝った解釈は、そもそも、個々の人間の心の中で発生したものであり、個々の人間によってのみ取り除かれうるものである。とはいえ、もし彼らが<<真理>>を追究しようとする強い意志とともに、次に私が述べることを聞いたならば、彼らのその作業は、はるかに容易なものとなるだろう。
「自我を克服せよ」あるいは「滅却せよ」というこの古来の教義は、そもそも極めて単純な教えである。
事実、あまりにも単純で、現実的で、実用的で、身近なものであるために、「複雑な理論を受け入れているがために、単純な美しい真実から目を離してしまっている大人たち」よりも、「様々な哲学的理論や神学的推理などの影響をまだまったく受けていない、五歳程度の子供」のほうが、はるかに容易に理解する傾向にあるほどだ。
自我滅却が意味するものは、「低次の自我」を捨て去ることであり、「心の中から、分離や不和、苦悩、病気、悲しみなどにつながる、あらゆる要素を排除すること」に他ならない。これには、「平和の創造に貢献する、気高い要素、清らかな要素、美しい要素を排除する」という意味はまったく含まれていないのである。
たとえば、ある人間が、短気を起こしそうになったりしたときには、その利己的な感情を必死になって抑え、忍耐と愛の精神とともに行動したとしたら、そのとき彼は、明らかに、自我滅却へとつながる作業を行ったことになる。この世界に住む人間のほとんどが、言葉では否定するかもしれないが、日頃、この作業をある程度は行っている。
そして、この作業を行い続けることで、心の中からあらゆる利己的な要素を排除し、そこを神聖な美しい要素のみで満たしたとき、人間は、自我を滅却し、<<真理>>に到達することになる。
<<真理>>の本体を構成する原則の数々である、
神聖な十の要素とともに生き始めることは、
<<真理>>を知り、<<真理>>を生きる者、
つまり<<真理>>の化身となることである。
滅却されるべき自我は、無益な、悲しみを生み出すだけの、以下の十の要素で構成されている。
以上の十の要素は、謝った願望の源であり、これらを完全に捨て去ることが、自我を克服することである。
さらに、この教えは、私たちに、次の神聖な十の要素の保持、育成、表現を求めてもいる。
これらは、「高次の自我」の主成分であり、<<真理>>の本体を構成する原則の数々である。よって、これらとともに生き始めることは、<<真理>>を知り、<<真理>>を生きる者、つまり、<<真理>>の化身となることである。
結局、滅却されるべき十の要素を併せ持つものが「低次の自我」であり、神聖な十の要素によって構成されたものが、「高次の自我」だということになる。そして、「高次の自我」を構成する十の要素を表現しながら生きる事が、<<真理>>に従って生きる事であり、そうやって生きているとき、人間は永遠の生命を知覚している。
自我の克服とは、
心の中から、人々との不和を引き起こす要素を一掃し、
心の通い合う調和に満ちた仲間の形成に貢献する、
あらゆる要素を保持することである。
よって、自我の克服とは、心の中から、気高い、誠実な、永遠に保持する要素は何一つ排除することなく、卑しい、誤った、すぐに過ぎ去っていく要素のみを排除することに他ならない。
そしてそれは、楽しみや幸せ、喜びなどを排除するものでも、もちろんなく、逆に、永遠不滅の原則の数々とともに生きることで、それらを常に手にし続けるためのものである。
自我の克服とは、喜びを「貪欲に求める姿勢」を排除することであり。喜びそのものを排除することでは決してない。
自我の克服とは、楽しみを「渇望する姿勢」をなくすことであり、楽しみそのものを否定することでは決してない。
自我の克服とは、愛やパワーを「利己的に求める姿勢」を排除することであり、それら自体の入手を否定することでは決してない。
自我の克服とは、心の中から、人々との不和を引き起こす要素を一掃し、人々を引き寄せ、心の通い合う調和に満ちた仲間の形成に貢献する、あらゆる要素を保持することである。
そしてそれは、人生から活力を奪い去る行為などからは最も遠く離れた、気高く、生き生きとした、能率的で、持続的な行動につながる、神聖な心的要素の数々を育み、表現する事を、強く促す作業に他ならない。
神聖な十の要素に導かれて生きている人間は、
自我の克服という教えの中に大いなる栄光を美を見、
それこそが永遠の生命を知覚する唯一の方法である、
ということを知っている。
滅却されるべき心的要素に身を任せている人間は、自分のエネルギーを誤った行為によって激しく浪費しながら生きており、それでは、いつになっても永遠の生命は手にできない。
一方、自分自身を常に神聖な要素にのみ導かれている人間は、生き生きと、誠実に、賢く行動し、永遠の生命を常に自覚しながら生きている。
ほとんどの行動を世俗的な十の要素に導かれ、永遠の生命に関する真実にまったく気づくことなく生きている人間は、自我の克服という教えに、いかなる魅力も、感じない。なぜならば、彼はそれを、自分自身を完全になくしてしまうことだとしか考えられないからである。
しかしながら、神聖な十の要素に導かれて生きている人間は、その教えの中に大いなる栄光を美を見、それこそが永遠の生命を知覚する唯一の方法であると知っている。
そして、彼はさらに、人類はこれを理解し、実践したならば、工業、商業、政府活動および、その他のいかなる世俗的な活動も、たちどころに浄化されることになる、ということも知っている。
そのとき、人類は不和や痛みから解放され、より有意義な活動、より崇高な目的、そして、より偉大な知性へと向けて、これまでには想像さえできなかった速さで歩みを進めることになるだろう。
スターダスト注:まだまだ続きますが、以下は書籍にてお読みください。
あなたと、あなたの愛する人々のために、素敵な人生のために。