投稿者 テオドールチベット 日時 2004 年 3 月 01 日 10:35:48:
回答先: Re: はじめまして。 投稿者 調和の母里 日時 2004 年 2 月 27 日 01:49:02:
調和の母里様
読み応えのある長文レスありがとうございます。
|> 恐怖心も、「ものの捕らえ方」で変わってくるものです。
|> それを、恐怖と見るかそれとも、別のものとして見るか。
|> 恐怖を作ったのは、人だと思うのです。
|> だから、最初から内にあった訳ではないでしょう。
|> 少なくとも、生まれたときには持ち合わせていなかったはずです。
|> これ(恐怖心)は、自分を成長させてくれているものとか、乗り切らなければいけないものとすれば、自ずと脱出することが出来るのではないでしょうか?
|> 恐怖心を恐怖で収めなければいいのです。
|> そうすれば、死に対する恐怖もなくなってくるでしょう。
私の恐怖はやはり様々なメディアから受けてきた潜在意識に刻み込まれた記憶や旺盛な想像力、そしてやや強めの感受性などが原因かもしれません。確かに、恐怖そのものとは自分が作り出しているものに過ぎないのかなという気持ちがしてきました。そして自己への執着、怠惰な心。
|> 今があるではないですか!大切な、今という現在が!!
|> それって、「とても素晴らしいこと」だと思います!!
|> 今の今を精一杯過ごさなければ、何にもなりません!!
今を生きるのは確かに実践しようとしてなかなか長続きしませんでした。しかし、母里様の力強いお言葉は参考になりますし、励みになりました。完全に今を生きることは、この瞬間を永遠として生きることであり、すべての邪念ゆあ恐怖の入り込む余地は本来、無いはずなんです。
|> 飛行機で落ちて死ぬ瞬間や
|> 今まさに殺されそうな瞬間に
|> 恐怖しないかは、定かではありません。
|> 正し、それも一つの考え方によっては
|> 随分変わってきます。
|> 現世に、そういう恐怖を植えつけるものが
|> 少なからず存在するではないですか
|> その恐怖を、一つ一つ変えていけばいいのではないでしょうか?
|> 殺人事件がなければ、そういう恐怖の形もないでしょう
|> 飛行機事故が100%起こらなければ、
|> そういう恐怖の形もないでしょう。
|> 自分にいつか起こるかもしれない
|> (または起こらないかもしれない)恐怖の形を
|> 起こる前から、恐怖心として抱いているのは
|> 不信ではないでしょうか?
たしかにある種の不信が原因なのでしょうか、なんとなく解る気もします。いや確かにこれは頭のなかで作り出しているだけの恐怖なのでしょう。そう思うと随分また気持ちが変わってきます。
|> つまりは、自分を信じられていないのです。
|> 周りを信じられていないのです。
|> (現在は、そういうことを信じられないのは無理もないですが)
|> もし、仮に自分が神に導かれて
|> 神と一緒に生きていると知れば
|> それは少なからず、自分を信じ
|> 神を信じ、自分を受け入れられたことになります。
|> そうすれば、もう怖いものなんて存在しないのです!!
|> すべては、神のお導きなのですから。
その神様というのは、私は創造主と表現を変えて理解いたします。これは趣味の問題というべきかは知りませんが、単に創造主あるいは聖霊があり、それは愛であると言うことについては間違いはないと思いますし、全宇宙の魂は創造主に繋がっており、全て認められていて、それに導かれているというのも正しいと思います。ただ、現在はいかなる宗教という形態は自分の中では全く認めていないために、このようにあえて主張させて頂きます。自分はつまり無神論ではない無宗教です。但し、宗教的な教えを全く知らなかったら、このような議論すら到底出来なかった事でしょう。ですから私にとっては全くの無価値と断言できるものでもありません。
|> そこから逃げずに、真っ直ぐにそれを受け入れて行ってはどうでしょう?
|> どうして、自分はこの恐怖におびえているのか…?
|> この恐怖はどこからくるのか…?
|> 恐怖とは何か…?
|> 自分とは何なのか…?
|> 本当の答えを持っているのは、自分なのです!!
|> 自分の本当の心を知れば
|> 何にも恐怖などいらなくなるのです!!
|> 自分は自分なのですから。
|> 自分という形を精一杯出せずに
|> 恐怖に縛られていたら
|> 何か、凄く悲しいと思いませんか?
悲しいか悲しくないかは主観があると思いますし、どちらでもいいと思います。
自分とは何か、はほとんど全ての人が一度は考えていることでしょう。
しかし恐怖がどこから来るのか考えている人は少ないと思います。この分析は徹底的にやる必要性があるでしょうね。私も続けたたいと思います。
自分というものを精一杯出すのにはいろいろな出し方があると思います。どういう意味での精一杯かなのか解りませんが、恐怖心を抱かない状態でと言うのは大事なことだとは思います。しかし、現実にはまったく恐れというものを無視した行動をとれば、少なくともこの地球上ではどうなるか自分は過去に多くの事を学んできたつもりです。自分を精一杯出すのは素晴らしいことですが、反面、そういう人は非常に希であり、多くのリスクを背負うこともあると思います。限られた偉人変人天才というか、残念ながら私は少なくとも対外的にはこれからも常識の範囲で生きるしかないと思っています。まさにアダムスキーの言うように、適当に楽しんで生きる中に真実を見つめるという、、、。「鳩のように素直で蛇のように賢く」とは聖書の中の言葉ですが。
|> 全ては、「自分の使命を受け入れて」
|> それに通じていけばいいのではないでしょうか?
|> 自分は神と通じている
|> 自分の中に全てがあると思い。
|> 傲慢に振舞ってはいけませんが。
もちろん全てを受け入れていく気持ちは昔から常に持っているつもりです。しかし観念で解っていても、潜在意識に刻み込まれた恐怖の記憶が邪魔をするのでしょうね。
「自分の中に全てがあると思い、傲慢に振舞ってはいけませんが。」これは大切な事ですよね。多くのセクト主義、宗教がこの罠に陥って自滅の道を辿っています。