投稿者 あつし 日時 2004 年 5 月 09 日 10:15:44:
回答先: ぜんぜんオフトピですが 投稿者 スターダスト 日時 2004 年 5 月 08 日 14:01:56:
スターダストさん、ありがとうございます。いつも貴方の書き込みを読ませていただいています。
米国の指導者達は、大衆の意見を操作するためにそういう言葉を用いたのですね。しかしどこの国でもそうした傾向を持っていると思います。結局、そのような言葉で踊るのが一般大衆のレベルなのでしょう。
いったい真のキリスト教精神はどこに行ったのでしょうか?
新約聖書「マタイによる福音書」第5章38に『目には目を、歯には歯を』という有名な言葉があります。しかしその次の39節からは次のような言葉があるのです。
「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一マイル行くように強いるなら、一緒に二マイル行きなさい。求める者には与えなさい。」
これを無視して、先の言葉だけを攻撃の理由にするのはまったく聖書の精神を無視していると思います。結局、彼らにはキリスト教精神を高揚させる意図はなく現実的であるわけです。もしかしたら聖書の文句を実行して「間抜けか腰抜けな政治家」の烙印を押されるのが怖いという恐怖心を持っているのかもしれません。
聖書には、現実的には不可能に近いことでしょうが、テロ組織を悪人と見ても、それに手向かってはいけないことが書いてあるのです。それどころか、右のほほを叩かれたら、左のほほをもどうぞ叩いて下さいと相手に向けろ、とも書いてあります。
聖書には「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」とあるのだから、こうした精神をどのように現実的に応用するのか、キリスト教国の為政者は考えるべきではないかと思ったりするのです。まあ、実際には無理なんでしょうけれども、もしそれが出来たら、それこそ世界中にキリスト教精神の素晴らしさが宣伝されると思うのです。
(テロ組織に対してはそう言うことは無駄かもしれませんが、彼らが活動する根拠に関して何か行えるかもしれません。例えばイスラム社会に対して兄のように親しく接し愛情深くもてなしたりするのです。またイスラエル問題に対しても、難民になった人達に対して過去の非礼を一人一人にわびて、いくら金銭がかかっても、手厚く保障をしてあげたり新居を与えたりしてあげることも重要なことだと思います。)
結局、真に社会を改革しようと思うのなら、上記に書かれたような、真に愛情と知恵のある「間抜けな政治家」達をたくさん世に送り出す必要があると思うのです。(腰抜けではだめでしょうが。)。それを行うために有志達は結束し他の全てと融和してゆく必要があるのではないでしょうか。
個人の生涯に関しては、太陽系内の惑星の優劣は関係ないと思います。私達は地上において、そのトップレベルの人間になりえるのでしょうか。地上にも相当なレベルの人達がいると思います。また各自は個人的な魂の必要性を満たすために各々の環境に生まれ出るのだと思うのです。
しかし他の惑星社会に関する情報はひとつの社会の未来形への目標にはなりえます。我々はこの地球上に生まれたのですから、宇宙の意識が地上に生きる必要性を認めたわけです。それで各自がこの地上における生に対して、その真の目的やカルマが何かを見極めて、自分自身の運命を担ってゆかなければならないのではないかと愚考する次第です。
あつし
|> あつしさんの言われること、おっしゃること素晴らしいです。
|> 全面的に賛成。
|> さて、オフトピック(関連のない話題)でもうしわけありませんが
|> ちょいとばかし。
|> 「目には目を歯には歯を」と聖書にも書いてあるではないか、
|> とアメリカの聖職者(保守層)が明言し
|> イラクへの攻撃占領を支持している現状があります。
|> 911の復讐は(特に宗教の敵ならば)
|> 正当化されると、そういう意図なのでしょう。
|> 神の軍勢なのだとかそこまで言わないにしても。
|> ですが、聖書における「目には目を歯には歯を」は、
|> 実際には復讐の正当化には使えないのです。
|> そのことをこれから書きます。
|> そもそも、「目には目を歯には歯を」は
|> 古代メソポタミアで、近代的な
|> ハムラビ法典が成立したときの
|> (この種の国際的に影響を与える法典は
|> 史上はじめて、という位置付けもあります)
|> 法律を定める上での基本原則だったのです。
|> このハムラビ法典が成立する前には
|> ひとつの罪を犯した者には一族郎党もふくめ
|> 百罰を与える風習が伝統的にあったわけです。
|> 現代風に言えば、万引きしたら死刑みたいな
|> ものです。
|> ハムラビ法典以前の、この一罪百罰には
|> 過剰な復讐の論理によって犯罪を抑制しようとする
|> 意図があったのかもしれませんが、明文化された法典が
|> あるわけでもなく、要は、支配者、為政者、地域の
|> 権力者のサジカゲンがいくらでもキクいいかげんな伝統が
|> あったのです。
|> そこへ、近代的な?と云って良いかな?
|> ハムラビ法典が成立したのです。
|> 当時にしてみればこれは、革命的なことでした。
|> いっさいの過剰な復讐を禁止しているのです。
|> (ただし、人間社会のありかたとして抜け穴は
|> 多少あったようですが、こまかい点はヌキにしましょう)
|> この「いっさいの過剰な復讐を禁止」
|> というのが
|> 「目には目を歯には歯を」の原理。
|> この歴史的な意味合いを考えますと、
|> この投稿の冒頭で私がひきあいにだした
|> アメリカの宗教者が聖書をひきあいにだした
|> 「目には目を歯には歯を」は、
|> 復讐を正当化するものではないと、2重の意味で
|> わかるでしょう。
|> 過剰な復讐を人間社会の法制度でもって抑制しよう。
|> というのが「目には目を歯には歯を」の原理ですし
|> 気分次第で行われるリンチのような復讐なんて
|> もうやめましょう、の心が
|> こめられているのです。
|> しかも
|> 「目には目を歯には歯を」は、神が創った法則ではありません。
|> 神は人間による復讐を肯定していません。
|> 「復讐するは我(神)にあり」という言葉が
|> 神の言葉として聖書にあるのですが
|> くだんの宗教者はその言葉との矛盾を追及しようとません。
|> キリスト教原理主義者(正しくは根本主義者)は、ときとして
|> こういった誤った聖書の読み方をして平気でいるわけです。
|> 悲しいことですが、聖職者が云った事をウノミにする大衆にも
|> 責任はあります。
|> −−
|> そういえば、旧約の「復讐するは我(神)にあり」
|> も間違って引用される機会が多い言葉ですね。
|> ヒトは復讐してはいけませんよ、という意味です。
|> 神にまかせておけと。
|> 新約では「裁くな」ですよね。
|> で、神はヒトゴトキになんか復讐しませんとも。(キッパリ)
|> 宇宙の法則によって、ヒトは学ぶべき環境をつぎつぎに
|> 与えられるだけです。
|> オフトピでしたが、普段から言いたかったことでしたので
|> おもわず書いちゃいました。