投稿者 コスモス 日時 1999 年 12 月 14 日 07:05:49:
パラダイム(習慣的想念)とパラダイムシフト
パラダイムとかパラダイムシフトという言葉は数年前に流行りました。
今では人間関係を心理的に分析する際にパラダイムが重要なキーワ
ードであると一般的に考えられていると思います。
私たちの心(マインド)は各々が自身の経験に基づいて、自身の中
に絵(イメージ)を描き、このイメージと比較することによって人を理解
したり、評価したりしています。(非難する時もあるでしょう)
この他者を理解するための絵(イメージ)がパラダイムです。従って
パラダイムを日本語に訳すと、物の見方、固定観念等であると思いま
す。
私たちの行動(及びその結果生じた物事)は他の人々に何らかの
評価を受けます。
(他人に隠れて何かした場合には誰にも分かりませんが。)
特に利害関係を持つ人々は、私たちの行動の結果に満足するか
又は不満足だと思うでしょう。
(不満が最悪の状態だと恐怖心となる場合もありますね)
通常私たちは不満足な結果に出会うと、その結果を変えようとしま
す。誤った行動をした人間を裁き、二度と同じ過ちをしないように
指導します。(犯罪や事故など例をあげるときりがありません)
不満足な結果を変えようとする場合、もう少し高度な考え方を持
って、結果を生じたしくみ(社会的なしくみ)を変更することもありま
す。(法律を現実に合わせて変えてゆくことなどがその例です)
これがパラダイムシフトと言われる、問題への取り組み(考え方)
です。
そこでパラダイムシフトの例を書いてみました。
今、日本(世界)の社会で、”学校崩壊”とか言われる問題が
起こっています。
子どもがゆとりを持って学べる環境を作るという目標が唱えら
れる一方で、生活環境が複雑化する現代では学ぶ必要がある
事柄が増えるばかりです。
学校は私たちの未来を担う子どもが学び、育つ「環境」です。
本来、学校がどのような場であれば良いかを考えるのは社会
全体の責任であり、義務ではないでしょうか?
それなのに子どもに関して発生する問題のほとんどが教師の
責任となり、教える人の資質や能力の問題にすり替えられてい
る様に思えます。
確かに人それぞれに得手不得手があったり、一人で何十人
もの子どもを見るのは大変なことでしょう。
但しもっと根本的な観点から、「教育」という事を考えて学校を
形作っていくことが必要だと思います。
例えば、教育とは
・子どもに社会生活に必要な事柄を教える。
・子どもが育ってゆく課程を見守り、必要ならば指導する。
ということだと私は考えます。
この目的に従うならば、「教」と「育」を分担してみたら、
どうでしょう。
・各教科を教える人。
・子どもの発達を見守る人(いわゆる担任の先生)。
さらに学校は子どもにとっての第2の家庭という場でもあるのです
から、担任となる人は男性と女性でペアを組むのが良いと思い
ます。学校でのお父さん、お母さん、教室の仲間は同じ歳の兄弟
姉妹という関係です。
各教科を教える人は、学校以外の職場と兼務されることが望ま
しいと思います。社会環境はどんどん変化していってますので、
理科とか社会について教える人は公立機関で専門知識を生か
して働き、学校で子どもに教えるという事ができると思います。
(現実的には職場の移動が大変かもしれませんが)
国語を教える人については、図書館や公民館などで就学前の
子どもへの読み聞かせが行われていますが、このような事を兼務
されてもと良いのではないでしょうか?
教育という目的に沿って学校のあり方を考えることが必要との
観点から、パラダイムシフトの例題として思いつくままに書いて
みました。
何らかのご参考となれば幸いです。
ちょっと話が飛躍しすぎている面もありますが、一つの考え方とし
てご容赦願います。
以上