投稿者 住田 一成 日時 2002 年 12 月 01 日 17:23:01:
回答先: Re: 宇宙哲学も仏教も実践哲学 投稿者 スターダスト 日時 2002 年 12 月 01 日 16:15:37:
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|> 流転する諸世界(=結果の世界)にのみに妄執することなかれ
|> 慈愛の想念を道とし、突き進め、そうすれば
|> 見えてくる(=悟り)
|> という方法論実践論が釈尊の説諭の中心課題のようです。
|> 自我の滅却とは、すなわち、センスマインドを
|> ソウルマインドと融合させることですね。
|> 釈尊は想念観察の膨大なケーススタディーを世に残しました。
|> 人を観て法を説けとはこのことです。
|> 釈尊存命の時代、もしくは、ほんの少し後の世では
|> 阿羅漢(=悟った者)が輩出しています。
|> 現代においてはどうでしょう。
|> 肝心なことを復興させるべきと思われます。
こんにちは。
結局、アダムスキーが残したのはいつの時代にも変わらない英知を純粋な形で表現したのでしょうね。
真理自体は変わりませんから、キリストもブッダもつまるところ同じ方向性で思想ののべたのでしょう。仏教、キリスト教、さらにそれの分派になっていくにつれて本来のものが見えなくなっていくのでしょうね。
イエスの「真理は汝を自由にする」という言葉も本来は「明らかに見ること」という意味も含まれているでしょうから「正見」「正思」ともつながってきますね。日常の手短なところで見落とされている事実が私には重要に思えます。書き換えられてしまった古文献、観念の複合集積した経典は本来の実践から離れたところで「わかった」と思い込ませてしまうのかもしれません。宗教のなかにも勿論オープンマインドな人はいますが、多くの人は読めどもよまず、聞けども聞かずの状態に陥りがちでしょう。
自己の主人となり、想念を観察しSPの一人にふさわしい生き方をし続けるということ以外の実践が私にとってのすべてです。