投稿者 瑠璃 日時 2000 年 5 月 27 日 18:38:26:
回答先: エレベータについて 投稿者 ドライもん 日時 2000 年 5 月 27 日 14:31:11:
おそろしく淡々と書きます。
攻撃の意図があるわけではないということご承知ください。
前半。
矛盾があります。
暗に絶対系が想定されています。
もしくはニュートン力学における重力概念が正確ではありません。
前半についてはスターダスト様が私より正確に表現なさるでしょう。
後半。
|>「力」と「加速度」は実際に具体的なものとして宇宙に存在してい
|>るのではなく、見かけ上存在しているものである。
「力」「加速度」は現象を別の言葉で表現しているに過ぎません。
原因として存在しないのです。
それを原因と仮定して考えることには意味がありません。
「具体的な存在」「見かけ上の存在」の意味がわかりません。
この「具体的」「見かけ上」は思い込みではありませんか?
おそらく慣性系の違いによる「見かけ上の力」のことでしょうが、意味が全く違っています。
私は観測者の視点に密接にかかわる表現をしました。
自分の身体のことを考えてください。
@あなたの体は具体的に宇宙に存在しているのですか?
Aそうではなく、見かけ上存在しているのですか?
Bただ単に「存在」しているのですか?
答えはおそらくBではありませんか?
私はBの意味で「力」「加速度」が存在しないと述べました。
これらは観測者が結果を見た(認識した)あと、
説明の為に造り出した概念に他ならないということです。
|>例えば、自由落下するエレベータから地球を観測すると、地球が
|>加速度をもって近づいてくることになります。
|>巨大なFが必要になります。
|>しかし、地上の人間がエレベータを観測した場合、小さなFしか
|>必要になりません。
基礎物理に抵触しています。
やはりニュートン力学での重力概念に誤解があります。
|>F(力)は観測系によって物質の運動を記述するためにのみ必要
|>で、実際には存在していない。
この「実際には」という部分がくせ者ですね。
先の「具体的」「見かけ上」と同じです。
物理概念は物理学者の間で成立しています。
互いの個性をある程度排除した上で数式化されています。
しかし、依然として彼らは物理学者という共通の視点を持っているのです。
現象と観測者の関係を分離して考えてはいないのです。
この意味でドライもん様の記述には科学の絶対化がなされています。
「視点が無くても科学が成立する」と考えてはいませんか?
しかし、何かが起きていても、誰も見ていなければ科学的記述は不可能です。
アインシュタインが理論化したのは、その視点が自由である、
視点に従った記述が可能である、ということです。
(説明しづらいです。−>スターダスト様)
|>実際には網膜もしくは物質の科学的変化である。
|>何らかの科学的な変化が起こらなければ、光の存在を知ることは
|>できない。
「科学的変化 → 光の存在を知る」に飛躍があります。
何が物質の変化を認識しているのですか?
|>一歩考えを推し進めると、絶対的な光の波というものは存在する
|>のだろうか。という疑問も生じる。
|>(以降略)
アインシュタインの光についての思考実験を読み直すことをお勧めします。