投稿者 土星の氷河 日時 2000 年 6 月 03 日 12:17:29:
回答先: 意識とは何か 投稿者 土星の氷河 日時 2000 年 6 月 03 日 00:46:42:
仏教では、センスマインドを次のように分析できます。
六根=眼、耳、鼻、舌、身(触感)、意
これは、肉体の器官としてのセンスマインドと考えることができます。意だけは精神的な働きと考えてよいでしょう。
六境=色(目に見えるもの)、声、香、味、触、法
これはセンスマインドの対象として現象界に現れているものです。法はあらゆるもの、つまり森羅万象と考えて下さい。
六識=眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識
これは各器官のもつ心であり、センスマインドのもつ六つの面と考えることができます。このとき、身識を触覚と考えてみます。
このように、センスマンドを三つの方面から分析することが可能です。しかし、ここで触感を肉体的な器官、触覚をそれが持つ心と考えることができないでしょうか。
アダムスキーは何故、第5感である触感を除外して4感だけで肉体の心(センスマインド)を説明したのでしょうか。私は第5感である触感を入れなければ、肉体の心であるセンスマインドを十分に説明することは不可能と考えます。つまり、暑いとか寒いという感覚、肉体的な苦痛、快感など、第5感を根底に置かなければ説明できない感覚があり、しかも、これらはセンスマインドの働きと考えざるをえないのではないでしょうか。このとき、アダムスキーのいう触覚とは、いわゆる第6感、霊感のようなものとして理解する必要があります。
ですから、触感と触覚を分けて考えるとき、第5感である触感がアダムスキーにおいては不当に低く評価されていて、センスマインド(肉体の心)の理解を不完全なものにしていると考えるのです。
もう一度、第5感を評価しなおしてはみませんか?
そのとき、アダムスキーの哲学に対する見方が変革され、センスマインドをより深く理解する道筋が見えて来るのではないでしょうか。そうすれば、今は十分に理解することのできない「意識」がはっきりと理解されるようになると考えられるのです。