投稿者 スターダスト 日時 2000 年 6 月 03 日 21:04:40:
回答先: Re: 意識とは何か 投稿者 土星の氷河 日時 2000 年 6 月 03 日 12:17:29:
|> このように、センスマンドを三つの方面から分析することが可能です。しかし、ここで触感を肉体的な器官、触覚をそれが持つ心と考えることができないでしょうか。
触感は、触覚にささえられた肉体の生命活動の総体の
ごく一部の結果から生み出される、いわば「映像」です。
TVの映像は、本体ではありません。これと同じです。
あなたのご意見では、
触感と触覚について、あえて倒置がなされていますか?
|> アダムスキーは何故、第5感である触感を除外して4感だけで肉体|>の心(センスマインド)を説明したのでしょうか。私は第5感である|>触感を入れなければ、肉体の心であるセンスマインドを十分に説明す|>ることは不可能と考えます。つまり、暑いとか寒いという感覚、肉体|>的な苦痛、快感など、第5感を根底に置かなければ説明できない感覚|>があり、しかも、これらはセンスマインドの働きと考えざるをえない|>のではないでしょうか。
暑い、寒いという感覚から、第一義的に恐怖や不安は
誕生しません。この意味において、これらの諸感覚は
体が生きていくにあたってのセンサーによる映像なのです。
肉体の心(センズマインド)の主成分はやはり
目の心、耳の心であり、ついで、鼻や舌などの心に
なります。これらの4つの器官は、単純なセンサーではなく
そこで、みずから情報を発生させます(あるときは捏造し、
あるときは、意識的な存在をすこしばかり感知し、それを
増幅しますが、多くの場合、オマケとして変な想念を
付加します。記憶と連結され、恐怖が発生します。しかし
宇宙の責任ではありません。)
>第5感を根底に置かなければ説明できない感覚があり、
>しかも、これらはセンスマインドの働きと考えざるを
>えないのではないでしょうか。
これらは、非常に役にたつセンサーであり、
しかも恐怖を生み出しません。
宇宙の意識、根源的な生命から、みずからを切り離している
状態に陥っているのは、なまじ優秀な器官として発達している
目、耳、鼻、舌(口)です。
センスマインドとして働くのは、ニセものの推理によって
勝手な解釈を生み出したり、本物の感覚を粉飾したり
する場合にゆがめられます。本来の働きをしていません。
>暑いとか寒いという感覚、肉体的な苦痛、快感など
これらを第5感覚として受け入れるのはどうでしょうか?
実際には、かゆみと痛みは別なセンサーでとらえられることが
科学的にわかっていますし、温かさも別のセンサーです。
圧力もまた別ですし、緊張をはかるセンサーも別、
神経の間にも複数のセンサーがあり、そして
脳はセンサーの巨大な集合体でして、、、
話を元に戻しましょう。
かゆみについては
あっためるとその感覚が増えることを考えると
あったかさを感じるセンサーとどこかで連絡しているに
ちがいありません。さきにも申し上げたように
普段は気がつかないこれらの
センサーには、たとえば、気管支のなかに異物がはいって
小さな繊毛が、その異物をとりのぞいたりするときの
センサーなどがありますが、肉体の心がこの感覚に
気がつくことはマレです。このよいに
感覚器官はたくさんありますが
それぞれの役割分担や、どのように
大脳において「心のなかに」映し出されるか、
とりこまれるかについて異なるばかりではなく
しかも全体として協力しあって、働いています。
こまかい諸感覚が、総体となって働いているのです。
これらは、「生命」の指導によって働くように
設計されていますが、発言権が強く、自治権を得ている
東京都知事みたいな人が「銀行からも税金もっと取れ」
などどいうと(冗談がすぎましたか?)
もとい、発言権が強く、独立して働いてしまっている
気になっている(=親の心、子知らず状態)
目や、耳が、勝手な妄想を作り出して、
諸感覚に不要なバランスを作り出す場合も
あるのです。代表的な例としては十二指腸潰瘍ですね。
|>このとき、アダムスキーのいう触覚とは、
|>いわゆる第6感、霊感のようなものとして
|>理解する必要があります。
|> ですから、触感と触覚を分けて考えるとき、
|>第5感である触感がアダムスキーにおいては
|>不当に低く評価されていて、センスマインド
|>(肉体の心)の理解を不完全なものにしてい
|>ると考えるのです。
|> もう一度、第5感を評価しなおしてはみませんか?
|> そのとき、アダムスキーの哲学に対する見方
|>が変革され、センスマインドをより深く理解
|>する道筋が見えて来るのではないでしょうか。
|>そうすれば、今は十分に理解することのできない
|>「意識」がはっきりと理解されるようになると考
|>えられるのです。
おっしゃりたいことの中核が上の数行に凝縮されています。
これは逆であって、肉体のセンサー、細胞のセンサーについて
アダムスキーはしつこいほど解説しています。
これらはソウルマインドの属性であって、センスマインドの
領分には、ないのです。
心(センスマインド)の分析にあったては
ソウルマインドの領分において肉体が
すばらしく完璧に働いていることをまず
認識しなくては
なりますまい。
妨害しているのは、センスマインドです。
その結果、われわれは老化し、病に倒れます。
人生においてのトラブルにうまく対応ができなくなり
ときおり、センスマインドからの間違った印象を
暴走させます。
真の直感、は、各細胞のセンサーが、
ソウルマインドを通じて
宇宙の意識に接触したときに
もたらされ、
しかも、それを
センスマインドが、受け入れなければ
発現されません。
センスマインドは、今、ここに
書いたように、
なまじ優秀な分析力、発言力を持った
4つの感覚器官から主に構成されているのです。
これらの4つの感覚器官の心=肉体の心は
ソウルマインド=魂の心と、同調しなければ
なりません。
混和させるのです。
まぜるのです。
等位におきます。
4つの感覚器官も、ほかの、無限に種類がある
ソウルマインドのセンサーと同じように
生命そのものに従属させなければなりません。
いいかえれば、センスマインドを
ソウルマインドに融合させるのです。
参考までに、思い出してみましょう。
これらの4つの感覚器官のことを
アダムスキーは、ある講演会で
「キャラクター」と呼んでいます。
わかりますか?
なぜそのような言葉を使ったか?
さて、これらの無限個ともたとえられる
センサーは
たったひとつのものにささえられています。
それは、触覚です。生命の諸活動によって
生み出される印象を検知する
統合感覚です。
発達した人間は
統合感覚としての
「触覚」を楽しんでいます。
発達した人間の内部にある
これらの統合されたセンサー群からなる
「触覚」には
当然のことながら
「目」も「耳」も「鼻」も「舌」も
生命のために、みずからを、発現させています。
私たちは、「意識」を見えないものと思い勝ちですが
日常生活で、使っているのです。
わかりやすい例をひとつだけあげましょう。
胎内に新しい生命の萌芽を宿した、多くの
聖母達は、、(この投稿を読んでいるすべての
人は聖母から生まれたのです!!)
母親は、かなりの高い確率で
「この子は、きっと【女|男】の子だわ」
という予想を当てます。
これらが、統合感覚としての母親としての
感覚が、もたらした印象です。
それらは、生命の偉大な活動から、印象を
受け取ります。
意識を理解するためには
触覚の理解が役にたつことが多いのは
上記の理由によるものです。
われわれは、統合感覚を磨くべきでして
しかも、これは絶え間のない練習と
忍耐が必要です。
そうすれば生命にしたがった
生活ができることでしょう。
生命の科学=生活の科学なのです。
触覚=統合感覚を、
センスマインドの第5感覚と
おけない理由については
これで明確になったと思います。
触覚は、
生命の流れにのり
生命を感知し
喜びます。
触覚は、生命であり、愛であり
全てです。
働きでありパワーであり英知です。
そこでは、すべてが一つです。