投稿者 土星のラ 日時 2000 年 6 月 06 日 11:45:34:
回答先: Re: 注意力散漫 投稿者 ドライもん 日時 2000 年 6 月 06 日 00:31:34:
|> 前回のレスはだいぶ注意力か散漫になっていました。
|> 内容を良く読んでいませんでした。
|> また、うっかり発言もありました。
|> 土星の氷河さん申し訳ありませんでした。
|> 反省しておりますm(−−)m
|> 短期間のうちに、急に話題が増えてしまったのが原因のようです。
|> ゆっくりレスしていきますのでよろしくお願いします。
|> ●意識について考える
|> 目を瞑って自分の意識について考えてみました。
|> 意識とは何だろう?
|> 意識に大きさや、限界というものはあるのだろうか?
|> 体の感覚を感じる。
|> 呼吸に注意を向ければ、自分が呼吸をしていることがわかる。
|> 何か特定の問題について考えるとき、様々なアイディアを思い付く。
|> 当てずっぽうの直感もあれば、真実そうな直感もある。
|> 直感・直感・直感で連想ゲームのように意識の幅を広げてみる。
|> ときには推理力を働かせて、パズルのように組み合わせてみる。
|> 言葉で表現できるものもあるし、表現しづらいものもある。
|> 身近なことから考えて、ときには宇宙に思いを馳せる。
|> 自分の中に広がる、意識の海の広大さに少しずつ気づき始める。
|> 目の前に咲いている一輪の花。
|> 花の意識を探すには、意識の宇宙はあまりにも広大だ。
|> しかし、それは意識の宇宙のどこかに、きっと咲いている。
|> そう、焦らず少しずつ探索の旅に出よう。
|>
|> さ〜て、どの問題から手をつけようかなぁ。
土星のラまたは土星の氷河です。
個別化された意識とは、真実の声のことです。すなわち、キリスト意識がそうです。キリスト意識とは、アダムスキーのいうように、個人の中に差し込んだ一条の光なのです。それこそ、真実の声であり、意識のささやきなのです。すなわち、真実の印象類とは個別化された意識の断片のことであり、個別化された意識とは一つの集合体として現れることはありません。常に断片であり、そのため理解が困難になるのです。つまり、断片であるために、個別化された意識の印象に間違いが混じ入ることがあるのです。その間違いこそ、触覚の中の外来細胞つまり悪魔的細胞が起こすのです。だから、私たちは悪魔的細胞の印象類に注意深くあらねばなりません。その印象類の方が数が多く、高級霊のように、正しい印象すら与えることがあるのです。しかし、それは悪魔的細胞から出たものであるので、真実の印象と混和するとき、ほんとうのことがわからなくなるのです。すなわち、真実の印象とそのような高級霊と呼ぶべき悪魔的細胞からの印象類を区別することが困難であるため、さまざまな混乱がいわゆる精神世界の探求者の上に起こるのです。宗教こそ、その混乱の中に埋もれている宝であり、何とかしてキリスト教と仏教の中からアダムスキーの哲学を救う方法を見つけていかなければなりません。そうしないと、アダムスキー哲学は多くの人々に破壊をもたらすだけで何ももたらさないのです。私こそその良い例です。アダムスキーの哲学によって、人生を壊された人々がいるのではないでしょうか?