投稿者 松本 日時 2003 年 7 月 27 日 08:55:39:
回答先: 私たちは科学者です 投稿者 純 日時 2003 年 7 月 24 日 01:54:21:
|> 科学にしろ数学にしろ、素人や子供に分からない
ような複雑で難解なものはまだまだ青い地球レベル
なんでしょうね。
∇数学というのは言語の一種と考えることができ
ます。英語やフランス語、中国語、日本語などと
ちょっと異なり、コンピュータ言語に近いもので
あるため、一般の人びとにはどうしても難しいと
感じやすいという点があります。
欧米人が日本語を大人になってから話せるように
なろうとすると、ひらがな、カタカナ、漢字と
いろいろあり、難しいと感じるのではないでし
ょうか。
でも、欧米人が日本で生まれれば、子供でも
ある程度容易に日本語を理解できるようになり
ますよね。
生まれてからいつも日本語を聞いているので慣れて
しまうからですよね。
テニスやサッカー、野球なども慣れることにより
うまくできるようになります。これも人により
好き嫌いがあって、得意、不得意がありますが、
結局、数学も同じことでしょう。
科学者の書いた本を見ると、自然界を記述するのに
数学という言語が向いているというのが、一般的な
科学者の見方のようですね。
ただ、確かにもっとわかりやすく表現できると
望ましいですね。
「単純な法則に支配される宇宙が複雑な姿を
見せるわけ,ジョン・D・バロウ,2002年」
[第4部 数学]
科学者は,数の中に確実なところがあることをずっと
知っていた。数学者は自然の動き方を理解することに
つながる確かな道を与えてくれる。私が十代の頃,
天文学のような科学にはじめて惹きつけられたのは,
世界のそんな面−それを記述するとき,単純な数学が
絶大な効果を発揮するということ−である。
器の中に広がる気体や,ひもの端で揺れるおもりを
見つめることから導かれた単純なパターンが,星の
構造やこの宇宙の拡大について教えてくれるという
のは,相当に驚くべきことだと思われる。
世界が次にとる一歩が,紙の上の走り書きで予測され
たものになるのはなぜか。
この宇宙が数学という音楽に合わせて進んでいるのは
なぜか。
数学とは何かを知りたいと思っても、おそらく数学者
に聞かない方がいい。歴史家は歴史とは何かを知って
いるし,社会学者は社会学が何であるかを知っている
が,数学者はたいてい,数学が何であるか知らないし,
気にもしていない。
数学者がやることが数学だと答えるだけである。
数学者の友だちが何人かいて,その人たちにもっと
細かいことを尋ねれば,返ってくる考え方にもいろ
いろあることがわかるだろう。
論理的パターンによるゲームで,チェスやチェッカー
のようなものにすぎないという人もいれば,現実の
奥にある構造を明らかにすることであり,本来の神の
思考を考えることにいちばん近いという人もいる。
その両極の間には,妥協や変動の幅がたっぷりある。
この宇宙の物理的な面について、いちばん奥底の
イメージを支配する思考のカテゴリーとして、人の心
を最も強くとらえるのは数学だ。
数学は、事物の性質について、効果的に、論理的に語
れるようにしてくれる「言語」である。
しかしこの数学の言語は、他の言語とは違う。
英語やスペイン語のようなものではない。
つくりつけの論理を有している点でコンピュータ言語
の方に似ている。
「犬はすべて四本の脚をもち、うちのテーブルは四本
の脚があるから、うちのテーブルは犬である」という
ような、文法的に正しい文を書いても、この文が
論理的に正しいことも、この世の出来事に一致する
ことも、保証の限りではない。
逆に、「誰も大胆に行ったことがないところに行く」
のような文は、文法的には適切ではないからといって、
その実現が不可能になるわけではない。
しかし数学の規則を破ればやっかいなことになる。
そういうわけで、数学は組込み式の論理をもった言語
である。しかしこの言語でいちばん目立つのは、世界
の動き方について、「そうなることもある」とか、
「だいたいそうなる」と言うだけでなく、いつも変
わらず、どこまでも正確に記述できるらしいという
ところだ。基礎科学−物理学、化学、天文学−は、
どれも数理科学である。
これらの分野で発見される現象については、必ず
数学的な記述ができるだけでなく、それが見事に
ふさわしいものとなっている。
科学は自然界に数学的構造があることを深く信じて
いるようで、素粒子による内側の空間から遠くの
星々や銀河による外側の空間−さらにはこの宇宙
そのもの−にいたるすべてを記述するには、数学
が必要かつ十分であるということは、まったく異論
の余地のない信条である。
この宇宙の構成に数学が遍在していることをどう考
えればいいだろう。この宇宙の内部に深遠なる論理
があることの証拠なのだろうか。そうだとすれば、
その論理は何に由来するのだろう。われわれの頭が
作ったものにすぎないのか、それとも神が数学者だ
ということなのか。
∇ゲームよりは、数を数えている方が脳にはよい
らしいという実験結果です。
「目で見る脳とこころ,松澤大樹,2003年」
先に見たとおり、テレビゲームをしているときは意外
に脳の一部しか活性化せず、当初予想した前頭前野は
ほとんど使われていないことがわかった。
では、もっと脳の広い領域を活性化する行動はない
のだろうか。答えのひとつは、これも意外なところに
あった。
1から10まで数えるのは、大人なら誰でもできる
簡単なことのようで、頭をたいして使っていないよう
に思われるが、解析した画像を見ると右脳と左脳の
前半分が真っ赤になっている。
これは前頭前野が活性化していることを示しており、
やはり意外な結果だといえよう。
同時に言語中枢である側頭葉のウェルニッケ野や
後頭葉なども活性化している。
∇難しい数学を理解できる天才でも、他のことは
普通の人と何ら変わらないという話です。
人によって数学が難しいと思う人と、生まれつき
才能を持っている人がいて簡単に理解できる場合
があるなど、人により数学の理解の程度が異なる
ので、何を基準として難しい数学というのかは、
難しいところですね。
ただ、難しい数学が理解できる人たちが少数派な
ので、科学者を除くと、普通の人にとっては数学
は難しいということになってしまうのでしょうね。
「脳のなかの幽霊,V・S・ラマチャンドラン,1999年」
この「サヴァン」とは、精神的能力あるいは一般的
知能が非常に低いにもかかわらず、驚異的な才能の
「島」をもっている人たちである。
たとえば報告されているサヴァンのなかには、IQが
50以下でふつうの社会生活がほとんどできないのに、
8桁の素数を簡単に言えるという人たちがいる。
これは終身在職権をもつ数学教授でもめったにでき
ない離れ業である。
あるサヴァンはものの何秒かで6桁の数字の立方根
を出したり、8388628に2を24回かけて、
140737488355328という答を出したりした。この人
たちは、特殊化した才能は一般的知能をうまく利用
したものにすぎないという議論を論破する生きた
証拠である。
よく語られるインドの天才数学者ラマヌジャンの話
について考えてみよう。ラマヌジャンは前世紀末から
今世紀はじめにかけて、私の生地から数マイルの
ところにあるマドラス港で事務員として働いていた。
ハイスクールの初等課程に入学を許可されたが、
全科目にわたって成績が悪く、高等数学の正式な
教育は一度も受けていない。それにもかかわらず
数学に驚異的な天分をもち、それにとりつかれた。
ごく貧しかったため紙を買うゆとりもなく、捨て
られた封筒に方程式を書き散らし、22歳までに
新しい定理を数個発見した。そしてインドでは
あまり多くの理論家と知りあえなかったので、
自分の発見を他国の数学者に知らせることにした。
当時の世界有数の数学者だったケンブリッジの
G・H・ハーディも知らせを受けた一人だったが、
ラマヌジャンの走り書きを見たとたん、相手を変わ
りものだと思った。
そしてちらりと見ただけでテニスをしに出かけた。
ところがゲーム中もラマヌジャンの方程式が頭から
離れない。
数字が頭に浮かんで消えないのだ。「それは本物に
まちがいなかった。そんなものをでっちあげる想像力
をもっている人間がいるとは思えないからだ」。
そこでさっさと家にひきあげたハーディは、封筒の
裏に書きこまれたいくつかの複雑な方程式の妥当性
を調べてほとんどが正しいことを知り、即座に同僚
のJ・E・リトルウッドに知らせた。リトルウッドも、
この手書きの方程式を検算した。
二人の権威は、ラマヌジャンがおそらく最高の力量
をもつ天才であることを悟り、彼をケンブリッジに
招聘した。
ラマヌジャンは長年ケンブリッジで研究をおこない、
ついにはオリジナリティーでも重要性でも、この二人
をしのぐ業績をあげた。
この話を紹介したのは、仮にあなたがラマヌジャンと
夕食をともにしても、どこといって変わった印象は受
けないと思うからだ。
数学の技能が度外れている−ほとんど神業だと言う人
もいる−ことを除けば、彼はほかの人とまったく一緒
だった。
もし数学の能力が一般的知能の働きの一つにすぎない
としたら、つまり脳がより大きく全体的にすぐれて
いることの結果だとしたら、知能の高い人ほど数学に
すぐれているはずで、また逆に数学にすぐれている人
ほど知能が高いはずだ。
しかしラマヌジャンに会えば、これがまったく事実で
ないことがわかるだろう。
∇19世紀のヨーロッパでは、一部の天才は大事
にされなかったようです。
現在では天才はずっと大切にされますが、難しい
数学に対しては、大多数の人たちは、だれでも心
の片隅に敬遠する気持ちがあるのが実態でしょう。
難しいからとか単純な方がという以前に、人により
与えられた才能の分野が異なるので、見方も異なる
のはあたりまえ、ということをお互いに認め合う
というところから考え始めては、と思います。
「群の発見,原田耕一郎,2001年」
[19世紀ヨーロッパ,ガロアの心の叫び]
「アーベルは貧乏しながら27歳で死んだんですね。
彼の原稿もコーシー氏がなくしたんですね。」
(中略)
「天才に敵意を持っているからこそ,アーベルは死
んでしまったんです。」
「邪悪な社会組織では,天才は認めれれなくなり,
凡俗ばかりがもてはやされます。
それはぼくにもよくわかっています。
が,それだけではありません。この邪悪な社会が
持っている残忍で容赦のない暴力というものがぼく
にもわかっています。」
「オンライン数学テキスト」
http://www007.upp.so-net.ne.jp/masema/
「黒木玄のウェブサイト」
http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/index-j.html