投稿者 Vosne 日時 2004 年 11 月 21 日 22:58:24:
回答先: Re: いろいろな考え 投稿者 スターダスト 日時 2004 年 11 月 21 日 14:59:02:
|> 自然界の謎を追求を続けた結果、物理学的描像を
得た科学者がその数学的表現を見出せずに苦吟して
いるケースが少なからずあるようです。
数学的表現をみつけられなければ、その物理学者は
自分の得た物理学的描像を実験によって確認すること
が出来ません。
実験値・理論値の比較という数値確認が出来ない
からです。
彼の物理学的描像に対する他からの評価は単なる
仮説・空想・妄想となってしまいがちです。
そうでない場合もありますが。
∇そうですね。最近の傾向としては数学者にたよらず
物理学者が必要な数学を編み出しているケースもある
と聞いています。
(超弦理論等で頭角を現しているウイッテンとか)
単に聞いているだけで、深い内容までは精査して
いないのですが。
|> 物理学理論(仮説でも)には、内的な完成度
という評価基準があります。
ある種日常生活上では非常識でありながらも、美しく
シンプルでありそこから得られる帰結が豊穣でさらなる
発展研究の刺激になるという基準です。
精緻な数学的な表現がみあたらなくとも、内的な完成度
が高ければ理論的追求の追従者が出てくるだろうし、
たとえ理論から正確な理論値が導き出せなくとも大体の
傾向を予測予言しているのならば、それを傍証するような
新しい実験方法を思いつく実験物理学者も出てくるかも
しれません。
内的な完成度がある程度高ければ物理学者は見逃しません。
より完成度が高い、しかも数学的表現のしっかりした理論
をめざすでしょう。
∇アインシュタイン;自然界は理性の言葉によって理解
されるが,一つの理論が受け入れられるかどうかの判定
条件は最終的にはその理論の美しさにかかっている。
一時期、アインシュタインは十分に自然に親しむ機会を
得ることができた時期があると聞いています。
自然はアナロジーの宝庫であり、彼のセンスもこの経験
から生まれたのでしょうね。
このような機会が必要であるという認識を持っている人
が世界の指導的立場にあるとよいのですが、なかなか
そうは問屋が卸さないようです。
そうは言っても、アインシュタインも間違った判断を
する場合もあったようです。
例えばブラックホールの存在に関わる問題で、1960年
ごろのクルスカル−スゼッケル座標など。
|> 最初から物理学者が完全な内的完成度を持った数学的
表現を得たとしてですが。
これは、やはり外的な検証を求める必要があります。
単なる空想ではないことを確認するために。
ところが実験が不可能なほど大規模なものが必要とされる
ケースもあり、なかなか難しい。
実験屋さんの新しいアイデアが必要とされたり、補足的な
数学的展開を行なって新しい実験方法を理論的に追加導出
しなおして世に問うということもありますでしょうか。
∇これは、いたしかたのないことかも知れません。
例えば、重力波の検出などのように非常に微少な時空の
歪みを計測するなどといったことは、非常に大がかりな
装置あるいはシステムが必要であり、多くの人の協調的
な努力が必要で、また非常に多大な資金や期間、それに
直接携わらない一般国民の理解も欠かせません。
一部の研究者だけでは不可能であり、・・・
要は、ほんとうに宇宙の真理を知りたいと願う人がどの
くらいいるどうかです。いいかげんな気持ちでなくて。
(もちろん、それで幸福になれるとかいう話では全然ない
ということを注意しておく必要があると思います)
|> アインシュタインは、特殊相対論発表以後、一般相対論
の物理学的描像を得るにはそれほど時間がかからなかったと
述べています。
ところが、その物理学的な描像を数学的に表現するツールが
なかったと言います。
友人の数学者に頼みこんで最先端、研究中の幾何学を紹介して
もらい、最先端に到達している数学者(レヴィ・チビタ)にも
教えを請い、数学者達が予想もしなかった精緻な表現を
アインシュタインはとうとう自分のものとします。
ここまでに10年を単位とする時間がかかっています。
∇ヒルベルトは、アインシュタインの数学の扱い方
はいささか不器用だった、と表現しているようですが、
ヒルベルトの言葉は大袈裟であり、アインシュタイン
はかなりいい数学者だったが、ただ、物理的洞察に
優れていたほどには数学に長けていなかっただけ、
と、ソーンも書いています。
一般相対性理論は、等価原理と共変原理という2つの
基本的仮説の上に創られているということですが、
アインシュタインは時空を一般の計量テンソルをもつ
4次元リーマン多様対に拡張し、計量テンソルを通して
あらわれる時空の幾何学的性質として重力場を記述
することに成功した、と聞いていますが、この目的
のための道具としての必要な数学を探すことに成功
した、ということではかなりの努力家であったと
思います。普通の人はアイデアだけで、後はあきら
めるのですがね
|> 余談ですが、アインシュタインは大学で理論物理学には
あまり熱心ではなく、実験物理学が面白くて面白くていつも
実験室に閉じこもっていたといいます。
実際、理論のほうは赤点ギリギリみたいですよ。
その上数学も苦手らしく、上にも書いた友人
の数学者(当時は学友)から数学のノートを借りてTESTに
なんとかパスをしていたようです。
理論物理学の最高峰のアインシュタインの学生時代がこうであっ
たとは、面白いではありませんか。
この「実験が好き」という経験が、Vosneさんいわくの
『過去に経験したこととアナロジーで結びついた場合』に深い
関係があるのでしょう。
私の大学時代の一年生の頃の数学の先生に聞いた話なのですが、
『数学者は子供の頃に泥ダンゴ作って遊ぶような奴がいい、紙と
エンピツでなにかするように強制されている奴は努力が必要だ』
と言っていました。
泥ダンゴ形成でイメージ形成能力をはぐくむことが数学者の素質
として必要なのでしょうか・・余談終わり。
∇余談のほうが、重要な示唆があるのかも知れません。
確かに、頭だけで考えていても、結局何も得るものが
ない、ということが、よくあることですね。
宇宙哲学とかテレパシー、あるいは宇宙的思想も同じ
ですが。
ただ、紙とエンピツも使い方によっては威力がある
ように思われます。
(頭の中のシミュレーションには効果的)
|> さて、最後に。物理学的描像が本質的に数学的表現を伴う
ケースもあります。
有名な事例をあげれば、「共変」といわれる物理学的描像が
あるでしょうか。
私の理解を日常言語で表現しますと「共変」とは・・
「宇宙の法則はひとつでありどこからみてもだれからみても
いつみても、法則は不変である」ということになるでしょうか。
この表現ならば頷く人も多いのではと思われますがいかがですか?
ただし、実際には「共変」は物理学的な描像ですからその時々
研究課題に即したテーマがあります。
そしてそのテーマに即した数学的表現が選ばれます。
|> 19世紀末〜20世紀初頭。ニュートンの力学とマクスウエル
の電磁気学は共に大成功を収めていました。
ところが普遍的にみえるニュートン力学の上に電磁気学をのせる
という両理論の融合は、「共変性」を重んじる立場からすると
不可能だったのです。
たとえば、自動車にのっている人が走行中にヒゲをそっていた
とします。
ヒゲそりにはモーターがついています。
このモーターの動きを理解するにあたって、車に同乗している
物理学者と、歩道で静止している物理学者とでは、
【妥協せずマジメにやれば】ですが、導かれる方程式の形が
かわってしまうのです。
誰から見ても何処からみてもいつ見ても方程式の形が同一で
なければならないはずなのに、共変性を満たしていたほうが
良いだろうと思うにもかかわらず、です。
この矛盾に気が付き始めた頃、そうこうしているうちに、
マイケルソンとモーリーが有名な実験をしました。
運動方向によらず光速度が不変のように観測されるという精緻
な実験です。
アインシュタインは共変性を第一義とし、ニュートン力学よりも
優先すべき原理と考えました。
∇アインシュタインがマイケルソンとモーリーの
実験結果をそれほど重視しなかった、というのも
意味ありげです。
実験する前に結論が見えていたのでしょうね。
そして特殊相対論を提出し、物理学的描像としてはよりシンプル
な(なにしろ観測者ごとに異なる方程式を用意しなくて良い
のですから)しかも従来融合できなかった力学と電磁気学の融合
という豊穣さを世に出しました。
評判は当初悪かったみたいですよねぇ。
だって数学的に難しい表現のように見えますから。
ですが、数学的表現が難解にみえようとも物理的描像としては
シンプルですから。
ちょっと日常生活の感覚と違いますけどねぇ。
私見ですが、21世紀にもなって未だに特殊相対論は間違っている
と言う人がいますが、、彼らの大部分は、「宇宙の法則はひとつで
ありどこからみてもだれからみてもいつみても、法則は不変である」
について、『共変性』について顧みていません。
∇彼らの場合は、単に有名な科学者に難癖を
付けて目立ちたいという姿勢を感じます。
中には大学の先生とかもいるようですが、専攻
している分野が違えば、結局、素人とあまり
変わらないのかも知れません。
(どうなっているのだろう)
日常生活での感覚と不一致だからなのか、法則が数学的に難しいはず
がないという信仰からなのか。
繰り返しになりますが物理学的描像としてはシンプルかつ豊穣なのです。
物理学的描像が本質的に数学的表現を伴うケースでは、けして数学的
表現にふりまわされないで頂ければと思います。
最後の最後に。アインシュタインは常に物理学的描像を優先に考え
内的完成度の立場から吟味し、さらに数学的表現を作りだしそれに
よって外的な検証の為の実験方法まで考えた上で理論を発表しています。
水星の近日点移動も日蝕における星の観測位置の移動についてなど
もアインシュタインは提唱しているようです。
数式書いてハイ終わり、という学者さんではありませんでした。
∇アインシュタインを意味もなく批判している
一部の人たちの影響が残っているようですが、
大半の人はそうは思っていません。
ただ、アインシュタインでも理解できなかった
現象が多々あるように思えます。
人が普通に経験できる自然とかけ離れた世界に
アナロジーを適応しようとした場合には特に難しい。
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結局のところ、宇宙の真理というのは、自然が
どう言っているかで決まります。我々、人ではなく。
(でも、解釈の違いも無視できない。解釈するのは
知性ある生命体ですからね。そうなってくると
認知科学も絡み合う)
|> 物理学的描像と数学的表現の関連についてツラツラと資料もなしに
書いております。
間違いがありましたらごめんなさい。
でも大筋においてはあっていると思います。
∇人、それぞれです。何事も。
確かに、より深く知っている人から見れば、とも思え
ますが、どのくらい正確にあるいは深く表現するか、
あるいは、どのようなアナロジーを用いるかは、人
それぞれでよいと思います。