投稿者 スターダスト 日時 2004 年 11 月 21 日 14:59:02:
回答先: いろいろな考え 投稿者 Vosne 日時 2004 年 11 月 20 日 21:44:10:
|> ∇数式上での理解と物理的意味の理解は異なるよう
|> です。たぶん物理的意味がわかるというのは、過去に
|> 経験したこととアナロジーで結びついた場合なので
|> しょう。
自然界の謎を追求を続けた結果、物理学的描像を得た科学者がその数学的表現を見出せずに苦吟しているケースが少なからずあるようです。数学的表現をみつけられなければ、その物理学者は自分の得た物理学的描像を実験によって確認することが出来ません。実験値・理論値の比較という数値確認が出来ないからです。彼の物理学的描像に対する他からの評価は単なる仮説・空想・妄想となってしまいがちです。そうでない場合もありますが。
物理学理論(仮説でも)には、内的な完成度という評価基準があります。ある種日常生活上では非常識でありながらも、美しくシンプルでありそこから得られる帰結が豊穣でさらなる発展研究の刺激になるという基準です。精緻な数学的な表現がみあたらなくとも、内的な完成度が高ければ理論的追求の追従者が出てくるだろうし、たとえ理論から正確な理論値が導き出せなくとも大体の傾向を予測予言しているのならば、それを傍証するような新しい実験方法を思いつく実験物理学者も出てくるかもしれません。内的な完成度がある程度高ければ物理学者は見逃しません。より完成度が高い、しかも数学的表現のしっかりした理論をめざすでしょう。
最初から物理学者が完全な内的完成度を持った数学的表現を得たとしてですが。これは、やはり外的な検証を求める必要があります。単なる空想ではないことを確認するために。ところが実験が不可能なほど大規模なものが必要とされるケースもあり、なかなか難しい。実験屋さんの新しいアイデアが必要とされたり、補足的な数学的展開を行なって新しい実験方法を理論的に追加導出しなおして世に問うということもありますでしょうか。
アインシュタインは、特殊相対論発表以後、一般相対論の物理学的描像を得るにはそれほど時間がかからなかったと述べています。ところが、その物理学的な描像を数学的に表現するツールがなかったと言います。友人の数学者に頼みこんで最先端、研究中の幾何学を紹介してもらい、最先端に到達している数学者(レヴィ・チビタ)にも教えを請い、数学者達が予想もしなかった精緻な表現をアインシュタインはとうとう自分のものとします。ここまでに10年を単位とする時間がかかっています。
余談ですが、アインシュタインは大学で理論物理学にはあまり熱心ではなく、実験物理学が面白くて面白くていつも実験室に閉じこもっていたといいます。実際、理論のほうは赤点ギリギリみたいですよ。その上数学も苦手らしく、上にも書いた友人の数学者(当時は学友)から数学のノートを借りてTESTになんとかパスをしていたようです。理論物理学の最高峰のアインシュタインの学生時代がこうであったとは、面白いではありませんか。この「実験が好き」という経験が、Vosneさんいわくの『過去に経験したこととアナロジーで結びついた場合』に深い関係があるのでしょう。私の大学時代の一年生の頃の数学の先生に聞いた話なのですが、『数学者は子供の頃に泥ダンゴ作って遊ぶような奴がいい、紙とエンピツでなにかするように強制されている奴は努力が必要だ』と言っていました。泥ダンゴ形成でイメージ形成能力をはぐくむことが数学者の素質として必要なのでしょうか・・余談終わり。
さて、最後に。物理学的描像が本質的に数学的表現を伴うケースもあります。有名な事例をあげれば、「共変」といわれる物理学的描像があるでしょうか。私の理解を日常言語で表現しますと「共変」とは・・「宇宙の法則はひとつでありどこからみてもだれからみてもいつみても、法則は不変である」ということになるでしょうか。この表現ならば頷く人も多いのではと思われますがいかがですか?ただし、実際には「共変」は物理学的な描像ですからその時々研究課題に即したテーマがあります。そしてそのテーマに即した数学的表現が選ばれます。
19世紀末〜20世紀初頭。ニュートンの力学とマクスウエルの電磁気学は共に大成功を収めていました。ところが普遍的にみえるニュートン力学の上に電磁気学をのせるという両理論の融合は、「共変性」を重んじる立場からすると不可能だったのです。たとえば、自動車にのっている人が走行中にヒゲをそっていたとします。ヒゲそりにはモーターがついています。このモーターの動きを理解するにあたって、車に同乗している物理学者と、歩道で静止している物理学者とでは、【妥協せずマジメにやれば】ですが、導かれる方程式の形がかわってしまうのです。誰から見ても何処からみてもいつ見ても方程式の形が同一でなければならないはずなのに、共変性を満たしていたほうが良いだろうと思うにもかかわらず、です。この矛盾に気が付き始めた頃、そうこうしているうちに、マイケルソンとモーリーが有名な実験をしました。運動方向によらず光速度が不変のように観測されるという精緻な実験です。アインシュタインは共変性を第一義とし、ニュートン力学よりも優先すべき原理と考えました。そして特殊相対論を提出し、物理学的描像としてはよりシンプルな(なにしろ観測者ごとに異なる方程式を用意しなくて良いのですから)しかも従来融合できなかった力学と電磁気学の融合という豊穣さを世に出しました。評判は当初悪かったみたいですよねぇ。だって数学的に難しい表現のように見えますから。ですが、数学的表現が難解にみえようとも物理的描像としてはシンプルですから。ちょっと日常生活の感覚と違いますけどねぇ。私見ですが、21世紀にもなって未だに特殊相対論は間違っていると言う人がいますが、、彼らの大部分は、「宇宙の法則はひとつでありどこからみてもだれからみてもいつみても、法則は不変である」について、『共変性』について顧みていません。日常生活での感覚と不一致だからなのか、法則が数学的に難しいはずがないという信仰からなのか。繰り返しになりますが物理学的描像としてはシンプルかつ豊穣なのです。物理学的描像が本質的に数学的表現を伴うケースでは、けして数学的表現にふりまわされないで頂ければと思います。最後の最後に。アインシュタインは常に物理学的描像を優先に考え内的完成度の立場から吟味し、さらに数学的表現を作りだしそれによって外的な検証の為の実験方法まで考えた上で理論を発表しています。水星の近日点移動も日蝕における星の観測位置の移動についてなどもアインシュタインは提唱しているようです。数式書いてハイ終わり、という学者さんではありませんでした。
物理学的描像と数学的表現の関連についてツラツラと資料もなしに書いております。間違いがありましたらごめんなさい。でも大筋においてはあっていると思います。