投稿者 スターダスト 日時 2005 年 3 月 10 日 00:51:52:
回答先: Re: たまには(6)テレパシー部屋にも書いて見ようかな 投稿者 /Ka++ 日時 2005 年 3 月 08 日 00:31:22:
|> 万物がひとつであるならば、不安や恐怖はその一部として受け入れるべきではないでしょうか。
切り捨てるという私の言い方が正しいニュアンスを伝えていないのかもしれませんね。どうしたものでしょう・・・・
不安や恐怖をニュートラルに受容できれば良いと思うのですよね。
不安や恐怖って「foobar」から離れて「bar」になっている状況なのだと思うのです。あえてジャーゴン風に表現していますけど。「bar」だから不安や恐怖が起きるのかなと思うのですよ。そうならば元通り「bar」は「foobar」であったことを思い出せばよい。
「bar」は単離した状況では不安定、そして、何よりもまず、肉体や心の中で権力を握りたがるのですよね。変な言い回しですけど。
私はこの権力を剥奪してやるのがいいと思っています。先回は切捨てという表現を使ったけどこちらのほうが本意に近いかもしれません。
権力を剥奪すること、ニュートラルにすること、そしてその思いや想いを受容すること、受容の先には、foobarがあること。
複雑になるのを覚悟でもうちょっと。
私たちってfoobar1,foobar2,foobar3,,,,
の統合化された集合体だと思うのですよ。で、foobar73が良くない状態になってbar73が単離する。するとbar73は非常に声を大にしはじめる。わがもの顔にfoobar統合体の頂点に立とうとする。
じゃぁ{foobar}n (n=1 to 無限)としては、bar73をどうするのか。bar73を切り捨ててしまっては欠落が生じる。苦しみが襲う都度、単離しているbar98やbar4867を削りまくっていったら後に残るのはfooだらけの灰、となるだけですよね。
(仏法の誤った解釈だと私が感じていることを思い出しました。なんでもかんでも「空だ」「空だ」と言いつつ「あきらめろ」みたいなことを言うではないですか。妄執は捨ててしまえと。本当は仏法はそんなものではないのではと思っていますけれど。)
(完全に悟りきった釈尊が、弟子を取り始めたときに最初に悟った弟子が出たわけですね、その時釈尊は文字通り小躍りして大喜びしたそうです。これって「空」の意味を考えるべきというヒントになると思っています。また、死ぬ直前にたった一人の弟子を連れて遊説にでかけるわけです。この時、生まれ故郷のそばを久しぶりに訪問するわけです。そして故郷をふりかえって「美しい」うんぬんと感傷を込めて言う訳です。悟りって生きることなのでしょうねぇ。空っぽの諦観は到達点ではないのでしょう、おそらくは。fooだけの集合になったって良いことはないのでしょう。)
閑話休題。
bar47がうるさいこと言って私という名前の「全体」の中で独裁者になろうとしているのなら、権力を取り上げれば良いと思うのですね。そして受容する。恐怖政治が発生しないように手配する。でもまぁやり方によっては間違いもあるかもです。例えば、bar47をギロチンにかけてしまうなど。これは駄目でしょう。
bar47だって好きで大声張り上げているわけではないでしょうから、その要求の本質を実現すべくfooとbarは互いに協力しなくてはいけないことでしょうねぇ。要求の本質はbar47の浅慮ではなくもっとウマイ方法で実現するのでしょうけれどね。
不安や恐怖はそのままでは受け入れることは難しいと思います。ミニパニックになっちゃっているから。落ち着かせて声を聞いてあげてそして一緒にがんばる方法を見つけることが必要なのでしょうか。
あ、子育てとおんなじですか。うん。bar95はなんだかわがままで我が強い。要求を通すために駄々をこねる。だからと言って子供を捨ててしまったらだめでしょうね。大事な子供は成長の為に何かをしようとしているのですから。ただし子供だから考えが浅い。親は断固として子供のワガママを無視し切り捨てるものの、一方において子供の要求を聞いてやることになりますね。で、一緒に考える。どうすればいいのかって。
ここのところちょっと寝不足なので、これでお終いです。すみません。